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心のつぶやきを吐き出す裏ブログです。
ブログのプロフィール
〈管理人名〉 O-bake

〈趣味〉 創作とクラシック音楽

〈主な内容〉
創作に関する覚書
ごくたまに掌編を掲載
テリトリーは童話からYAまで

〈お願い〉
時々、言葉が足りないために意味不明な文章があったり、攻撃的な文章がありますが、ここは毒吐き場なので、どうぞ見過ごしてやってください。

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〈本家ブログ〉
びおら弾きの微妙にズレた日々
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先日の小旅行で浜松へ遊びに行った。ディープな(?) 名所めぐりみたいな旅で面白かったのだが、実は浜松という土地は自分にとって少々特別なところでもある。

浜松の観光名所といえば、まずは浜名湖だろう。美味しいものはたくさんあるし、舘山寺など古くからの保養地や観光地は多い。そしてもうひとつが中田島砂丘。遠州灘に面した海岸沿いには延々と砂丘が続き、わざわざ鳥取まで行かなくても楽しめる(もちろん鳥取砂丘の方が規模は大きいし観光にも力を入れていることは知っている)。

この中田島砂丘には若い頃に友人たちと遊びに行った思い出が染み付いていて、それが単に「楽しく遊んだ」だけでなく自分の魂の相方を探すような旅も兼ねていた。特に、大学時代の友人たちと浜松へ遊びに行った帰りに、有り難くも自分の我が儘を聞き入れてくれて月夜の砂浜へ車を乗入れ、月に照らされる砂丘の海を堪能させてくれたことは忘れられない。

愛知育ちの自分にとっては、海が特別珍しいものではなく、日帰りドライブで十分見に行ける存在だ。それでも海岸から水平線に目を向けると、その向こうにはきっと何か大切な場所があるに違いないと感じられてしかたなかった。リアルに存在する外国とかではなく、仏教で言う彼岸みたいな場所だ。魂がいったん還り再び現世に戻って来るための場所という感じ。

その感覚があるから、自作の物語で生命の源となる場所を登場させたとき、そこは延々と砂浜が続く海辺になった。七色に発光する海と夜も昼もなく常に薄明るい浜辺のイメージだ。モデルは言うまでもなく曇天の昼間の中田島砂丘。

あれから随分時間が経った。現実の生活を回すのが手一杯になり、物語を書くこともなくなった。物語世界を生きる変わりに現実世界で揉まれ面白い体験をたくさんした。人間関係は入れ替わり、音楽と物語の代わりにアートや社会との関わりが頭の中を大きく占めるようになった。そして砂丘はノスタルジアを掻き立てるものではなく、普通に綺麗な風景として目に入るようになった。

が、この期に及んでなんと、長年心に思い描いていた理想に近い砂浜の風景を車窓から眺めるチャンスに遭遇し、あまつさえ写真に収めることに成功してしまったのだ。これにどんな意味があるのかといえば、特にない。強いて言えば、過去の自分へのプレゼントだろうか。

それからもう一つ、自分の心がどう変化しようと魂の還る場所は変わらずそこにあるのだろうということ。
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1つ前の記事で「今年の2月は星占い的に大事件が起きている」と書いたが、その後実生活でも大きな変化が起きた。占星術は意外と侮れない。一番大きな変化は、変わらないと思っていた労働条件が熱した千歳飴のようにぐにゃりと変化して3月からたくさん働けるようになったことだ。お財布にとってもメンタルにとっても良い方向への変化。さらに4月になって職場的にも改善の方向で変化があり、増えないと思っていた人員が増えたばかりでなく、戻って来れないと思っていた人が復活した。とても嬉しい。

ところが復活してきた人とのおしゃべりが以前ほど弾まない。表面的には弾んでいるのだけども、自分が感じる楽しさが若干減っていることに気がついてびっくりした。この一年で自分のメンタルは気づかないうちに結構なダメージを受けていたらしい。あるいは価値観が変化していたのかも。その人と喋るまで、自分に起きた変化の大きさについてまったく気がついていなかった。

同様にもう一つ戸惑いを感じる出来事があって、なんとクラシック音楽に対して「これは現代の倫理観に当てはめるとアウトな芸術なのでは」という疑惑がむくむくと湧き上がってきたのだ。心当たりはある。現代アートにまみれ過ぎた。例えば豊田市美術館での「アンチ・アクション」展。これは60年代に前衛芸術の世界に躍り出ながらほどなく忘れ去られていった女性たちを取り上げた展覧会だった。そして国際芸術祭あいち2025。これは成功した芸術祭だったと思うが、時代の先端をいくステートメントを採用するなど、「社会的に弱い立場の人々を誰ひとり取り残さない」思想が強めの芸術祭でもあった。女性やマイノリティ、障害を抱える人々がそうでない人と同じように社会参加することを目指す考え方が背骨のようにしっかりと通っていた。このこと自体は個人的には歓迎している。そして、この考え方に馴染んでしまうと、近代ヨーロッパの芸術が地位ある男性のためのものであったことが悲しいくらいハッキリと見えてしまう。

あれだけどっぷりと浸かっていたクラシック音楽の世界が強力な家父長制の社会に支えられていたこと、そして現代の先端を行くアートの世界では家父長制は否定されるべきものと見なされていること。これがいつの間にか自分の中で対立を起こし、ある晩、クラシック音楽館を見ている時、不意に「なんかこれ気持ち悪い」という思いが湧き上がってきて「ヒェッ」となったのだった。(ただしその数週間後にワーグナーの「神々の黄昏」を聞いて、彼の洞察の深さに感銘を受けた。なにしろ家父長制の象徴であるヴォータンとその宮殿が浄化の炎に消え、彼の娘ブリュンヒルデが愛の力で世界を救済するのだから)

もちろんクラシック音楽というジャンルは芸術としての完成度が高いし人生をそれにかけるだけの価値がある世界ではあることには変わりないけれども、いったん現代アートの自由さというか既存の社会への問題提起力を知ってしまうと後には戻れないわけで。もちろん音楽の世界にも古い社会に反旗を翻すタイプのジャンルはある。かつてのロックとかメタルとかラップとか。でも影響力を持つ存在になるにつれ、結局は社会制度に取り込まれていく。まさか音楽の世界をこんなふうに俯瞰する日が来るなんて想像したこともなかったな。
占星術の世界では、今年の2月は大事件が起きているらしい。なんでも土星と海王星がいっぺんに牡羊座入りをするとか。牡羊座は12星座の中の一番目で、そこに現実を司る土星と理想を司る海王星が入るので、リセット効果が大きいらしい。

社会の動きはさておき(2月の総選挙では自民党が前代未聞の大勝ちをし、歴代初の女性首相が本格的に動き始めた)、個人の世界でも大きな動きがあるとかないとかで、星占いやスピリチュアル関係の投稿もザワザワしている。

自分の世界も山あり谷ありでザワザワしているのだが、ここはひとつポリアンナのように「良かった探し」をしてみたい。マイルストーンを置くような心持ちで。

・自分が企画したプチアート旅がとても楽しんでもらえた。美術館ボランティアの同期をさそって5人で三重県立美術館までおでかけ。行きと帰りは電車でしゃべり倒し、昼は併設のきれいなレストランで美味しく食事をし、美術館の展示は企画展はもちろんコレクション展や屋外彫刻までしっかり堪能した。イベントのスライドトークは夢のなかだったけど…。みんなに喜んでもらえたのが何より。

・ボランティアをしてる関係で、まるで自分ちの庭のように出入りしている豊田市美術館で、展覧会の取材の一環として担当学芸員さんに学芸員室でお話を伺うことになった。けっこう緊張するしどうしようと思っていたら、なんとその日いっしょにガイドを担当して下さったKさんと出くわし、そのままいっしょに話を聞く流れに。おかげで、1人で聞くよりいろんな話が聞けたと思う。天の助け。

・お仕事で書いている展覧会の記事、毎度頭を悩ませているし、そこそこ時間がかかってしまうのだけども、美術館の担当学芸員さんや仕事先の編集長から良い反応を貰えるのがありがたい。たぶんもう少し楽に書いても展覧会の紹介記事としては成り立つのだろうけど、そこは毎度自分の限界を試していかないと、気付かないうちに文章の品質が落ちてゆく。

・仕事以外で趣味で描いているアート関連の記事も反応が増えてきた感触がある。特に、ゲルハルト・リヒターの講演会を聞いたあと、内容をSNSでつぶやいたらめっちゃ反応がきてフォロワーも増えて引くほどだったが、嬉しい。

・ダンナ氏のごはん作りが順調。最近は鍋物が減り、少しずつ野菜の量が増え腕前も上がってきている気がする。これは非常にありがたい。

・美術館で買いためたポストカードや記念品を整理していたら、当時は気づかなかったが今見たら非常に貴重なアートブックを発見。過去の自分、GJ。今度、美術館のボランティア仲間に披露してみたい。

まだ細かいことを拾ったら件数が増えそう。でもこのくらい挙げたらいいかな。

ふと思い出したけれど、去年の今頃は大木裕之さんの最新作「松前くんとトヨタくん」を見ていたんだよな。そして大木さんの無茶振りパフォーマンスを見て楽しんでいたっけ。大木さんが探していたトヨタくんはきっと何百年も前から豊田の地にいて、今もちゃんと豊田の美しい風景の中にいる。今日、豊田市博物館で豊田市域の古地図を見てそう思った。

2025年から2026年にかけての年末年始は不思議なくらい時間が溶けた。年賀状じまいをして、少しばかり余裕ができたつもりでいたが、小さな用事が積み重なり、さらには身体の頑張りがきかなくなってきたこともあり、毎年恒例の振り返りをする時間が消えてしまい、ギリギリ三が日内に間に合うかどうか、というところ。毎年大掃除をしないと年が越せない性分だが、それと同じくらい1年の振り返りはメンタル面の大掃除的な意味で必須なのだ。

前フリは以上。

2025年、自分的にの大きな出来事といえば次の5つ。
・やる気スイッチの正体はホルモンだと知った(更年期のあれこれを通じて)。つまり、気合ではなんともならないが、ドーピングは可能だということ。
・あいちトリエンナーレもとい国際芸術祭あいちの会場のひとつとして瀬戸市が選ばれた。良い展示だったし、会場周辺はいい具合に盛り上がった。
・嬉々としてボランティアに応募したものの、やりたいチームには入れず、その瞬間に自分的な芸術祭は終わったも同然。燃え殻のような気持ちで会場運営サポートに入る。その体験は決して悪いものではなかったが、不完全燃焼。
・同じく大変楽しみにしていた瀬戸現代美術展2025も開催され、こちらもがっつりボランティアに入る。さらに即席で結成した対話型鑑賞チームに加わり、大好きな作家さんたちの作品でガンガン鑑賞会をする。こちらはとても楽しくてやりきった感満載。
・職場の都合で勤務日数が減り、ピンチに立たされたがなんと市直営の茶室に勤務することで金銭的な窮地を脱した。さらにお抹茶の点て方を覚えたというオマケつき。まあ、接客を伴う施設管理は慣れてるからね。

結局、石井ゆかりさんの年間占いにあったようなことが起きたかというと、正直「ウーン」という感じで、占いの文言にあったような「本当にやりたいことのために努力を始め」た実感はない。展覧会レポートのお仕事は幸い順調で前年と同じくらいの量をこなし、だいぶ慣れてきた。そろそろマンネリ化の危険を感じる。趣味で出かける展覧会の数もだいたい前年通り。今年ならではの変化といえば、知り合いの作家さんが増えるとともに個人経営のギャラリーにお邪魔することが増えたくらいかな。

だから、2026年はアート関係で有料化できるレベルの記事をnoteで定期的に書いてみたいと思う。例えば2週間に1本くらいのペースで。しかし、そのためには読んでおきたい本が何冊かあり、実は読書の時間をひねり出すのも大変な状況だったりする。ホントに身体が3つくらい欲しい。ひとつ目は職場で仕事をしてもらい、ふたつ目は物書き関係の仕事をし、みっつ目は体力温存のためゆっくり寝る。

ちなみに、石井ゆかりさんによると2026年の蠍座はこんな感じ。
2026年、蠍座の人々は「何が本当の努力なのか」を見つめ直す作業を始めます。一方で、「どんな目標を目指すべきなのか」という、大きな問いも生まれます。大きな目標を掲げ、コツコツ努力を重ねる。そのスタートラインに立つのが、蠍座の2026年です。
(中略)
生計を立て、家族や身近な人の世話を引き受けるという多忙な生活において、「目標に向かって努力する」のは、余暇の贅沢な楽しみにすぎません。

2026年は、そうした、努力と目標の不整合が、ただされます。足りないものが補われ、未来への道筋が生まれます。中には、目指さざるを得ない目標が起ち上がり、せざるを得ない努力をし始める、という人もいるでしょう。

これを読んでいて、やはり占い師のしいたけ。さんの言葉を思い出した。運勢と運命について解説がされている記事で、運命は強制的にくぐらされる門のようなもので、うまくできるまで何度もやり直しをさせられるという。めっちゃ大変なのだけれどもくぐった先にはレベルアップした人生が待っているらしい。なんか、そういうハードで濃密な日々が来るのかと少々ガクブルワクテカしている。

ある作家の先生と話をさせていただいた折に「蠍座は難儀だね」と言われてから一年以上。その間、何度この言葉を噛み締めてきたことか。能力の高い蠍座さんに何人も出会ってきて、その力に感嘆すると同時に、この世界では生きづらいよねと心の中で呟いてきた。同様に自分に対してもモヤモヤを抱えるたびに「蠍座は難儀だから」と呪文のように呟いてきた。

2ヶ月くらい前のことになるが、この呪文に追い打ちをかけるような出来事があった。

どういう風の吹き回しか自分でも謎だが、お金をかけてプロの方に星読みをしていただいたのだ(でもメインの目的は精油マッサージw)。今の時代、生まれたときのホロスコープなら無料でも調べられるし、ある程度星の位置の意味もわかる。でも、独りよがりな読み方になってしまうし、ちゃんと勉強をした第三者の解釈が欲しかったのだと思う。

結果、わかったのは、やはりどうしようもなく難儀な星の配置を持って生まれたらしい、ということ。ざっくりまとめると、自分が生まれた時の星はほぼ全てが下半分、要は内面の世界にある。だから基本的には内面の充実を大事にする性分。しかし、一個だけ力の強い星が、外界を表す上半分の高い場所にいるのだ。それが牡羊座土星。だから内向的な性格でありながら社会的に認められたい欲を生まれながらに持っていると言ってよい。同時にこれこそが、今まで抱えてきた一番大きなモヤモヤの元凶だったかと、幽霊の正体枯れ尾花を見つけた心持ちになった。コミュ障なのに世間に認めてほしいとか、これはマジにヤバい性格でしょ。これを穏便に満たすなら確かに物書きは最適な手段なのだ。

しかし、生まれたときの星の配置がこれなら、本質的なモヤモヤは一生抱えていくことになるだろう。やれやれ。

年末恒例の…とか思っていたら、大掃除に気を取られているうちに年が明けてしまった。
それでも石井ゆかりさんとしいたけ。さんの年間占いはちゃんとチェックしている。

読んでみて思ったのは…

2025年もコミュニケーションの年ですか?

ということ。正確には「ギフトの年」とあったが、ギフトのやり取りの前提としてコミュニケーションの存在がある。縁のある人から有形無形のものをやり取りすることになるのかもしれない。そしてギフトの先に待っているものとは…
「本当にやりたいこと」「本物の喜び」。
そこには、苦労やガマン、悩みがつきものです。
2025年の貴方はきっと、大きな喜びのために、自らそれらを選び取ります。
そして、その試みは必ず、数年後の大成功に繋がります。
この時期の貴方は直観的に、自分の願いがいずれ叶うことを知っています。
ゆえに、難しいと思えること、辛そうなことでも、必死に引き受けていけるのです。

まるでオーケストラの練習をしているときのようだ。大変だー時間がないーとか言いながら必死に練習をして本番を迎え、拍手を受けた瞬間にすべて報われる流れそのもの。あるいは必死で物語を書き上げ、読んだ人から「救われた」と言われた瞬間。

もしかすると、新しい年は何か素敵なものを作ることになるのかな。
今年の春、取材の折に画家の方と直接お話しできる機会があり、絵画についてだけでなく、社会の情勢についても興味深いご意見をうかがい、楽しいひとときを過ごしたのだが、その中に星占いが出てきた。大学で教える立場にあるその方は、学生と会話するとき、とっかかりとして星占いを使うのだという。それだけでも十分面白いと思ったのだが、「あなた何座?」と聞かれ、そう来るかとびっくりした。素直に「蠍座です」と答えたところ、その方は少し勘案するような素振りを見せて、「いろいろ難儀でしょう?」と言われた。正直ピンと来なかったが、深い意味があるのかもしれないと思って、「はい」と頷いた。

一般的に星占いの世界では、蠍座はミステリアス(秘密主義)だとか、頑固な一面があるとか、メンタル的にスタミナがあるとか、生と死に関わる星座だとか色々言われている(ときには「頭がおかしい度999999%」と言われたりすることも/笑)が、それと「難儀」があまり結びつかなかったのだ。

しばらくして、他の蠍座さんと関わる機会があり、そのこだわりの強さと独特のコミュニケーションの仕方に対して「なかなか面倒くさい性格してるよね、お互いに」と思うことがあった。このときに「お互い難儀な性格だよね」と言い換えても問題なく成り立つことに気がつき、画家先生の「難儀」の意味が腑に落ちたのだった。

その後、自分の心の中でなにかの壁にぶつかるたび、「難儀な性格だからね」と自分に向かってつぶやくようになった。すると少しだけ気持ちが楽になる。便利な言葉だ。

それにしても、蠍座だから難儀な性分なのか、あるいは「難儀でしょう」と言わたので、それに当てはまるような事象に対してアンテナが立ったのか、どちらなのだろう。(たぶんそういうとこ)


この半年くらいだろうか。元ツイッターでぷち怖い話が4コマ漫画で流れてくるようになり、時々読んでいる。怖い話は苦手だが、ちょっとだけ怖いのならギリギリ楽しめることに気づいたからだ。そのうち、少しずつ怖さに対する耐性がついてきたような気がする今日このごろだが――まるでタイミングを測ったかのように、今度はnoteで笑えない怖い…というかヤな話が飛び込んできた。

世の中には引きが強い人がいるし、ここぞという場面で大事なものを引き当てる人や「持ってる」人たちがいる。あまり霊感とか超能力的なもパワーは信じないほうだが、そういうものが世の中にまったく存在しないとも思えない。霊的な世界に足を突っ込んでいる人にはちゃんとそういう世界があり、素人は立ち入ることができない場所があるのも間違いないだろう。

それで、先日、そういう世界にいる人の書いた記事を目にする機会があった。たまたまだと思うが、困ったちゃんの例として「自分の力に無自覚でいるがために、何の配慮もなく自分に有利になるよう念じた際に(恐らく)無理に世界を動かしてしまい犠牲者が出た」話が挙げられていた。

これは例えば、嫌な上司と離れたいと願った際に、その叶い方が、上司が事故にあって入院するという形をとるようなケースである。黒い魔法と言ったらイメージが湧きやすいだろうか。もし上司が栄転して違う職場へ行ったという結末なら、白い魔法で願いが叶ったと思ってもいいのかもしれない。

実は、最近、自分でも物事がうまく流れすぎると思うときがあって、「こうなったらいいな」が叶うたび知らず知らずのうちに誰かを傷つけたりしていないだろうかとふと気になった。もっとも、自分は見えないパワーを扱う人たちとは違う世界に住んでいるので、そもそも良いことも悪いことも恣意的に起こす力は持たないはずではあるのだが。
毎年年末年始は、年間星占いを見て(主に石井ゆかりさんとしいたけ。さん)年始の抱負みたいなものを考えるのだけれど、今年はこんなことが気になっている。

どの占いを見ても、今年の蠍座は引き続き人間関係がフューチャーされるようだ。実は昨年の10月あたりからすでに熱いので、その勢いが続くとなるとエライことになりそうだ。心の準備、というか思考パターンを大きく変えないとついていけない気がする。

それからもうひとつ大事なことがあって、それは石井ゆかりさんの占いの一番最後にかかれていた文章と関係する。
人と人、人と世界、人と事物との深遠な心の結びつきこそが、貴方がこれから伸ばしてゆく根であり、枝葉です。

今の美術展ライターの仕事をしていると、人と芸術と社会、という三角関係にどうしても目がゆくし、同時に人と美術館と社会、という三角関係にも注目せざるを得ない。この三角関係がまさに、「人と人、人と世界、人と事物との深遠な心の結びつき」と対応しているのだ。

アートというのは、人間が自分を取り巻く世界や物事をどう捕らえているかを表現するものだし、それには社会とアーティストのつながりが必ず反映される。美術館はアートと社会をつなぐ存在であり、言い換えるとアーティストと鑑賞者をつなぐ存在だ。いずれにしても「つながった」と感じるためには、エモーション、心の結びつきが生まれるかどうかにかかっている。

これまでの人生、息をするように音楽やアートを見聞きしてた自分にとって、音楽やアートから受けた感覚を伝えたいと思うのは当然の欲求だし、結果として「アートを通じて世界が広がった」という人が増えると嬉しい。
特に、今のアートは結びつきを作るためにはガイドができる人間によるちょっとした手助けが必要で、それができるといいなあと思うし、アートとの出会いってつまるところ他者との出会いなので、これもコミュニケーションの一種なのね。このあたりを深掘りして自分の行動に反映させることができたらいいなあと、ぼんやり考えている。

昨年の年末はいい具合にバイロイト音楽祭でワーグナーの舞台神聖祝典劇「パルジファル」をやっていたので、聴きながら大晦日の晩を過ごした。リングをがっつりやり、トリスタンを真面目に聞いた後のパルジファルは、新たに気づいたことも多く、心洗われる体験だった。
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