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心のつぶやきを吐き出す裏ブログです。
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〈管理人名〉 O-bake

〈趣味〉 創作とクラシック音楽

〈主な内容〉
創作に関する覚書
ごくたまに掌編を掲載
テリトリーは童話からYAまで

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時々、言葉が足りないために意味不明な文章があったり、攻撃的な文章がありますが、ここは毒吐き場なので、どうぞ見過ごしてやってください。

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〈本家ブログ〉
びおら弾きの微妙にズレた日々
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昨日も書いたけれど、六月いっぱいかけて物語をひとつ書き上げた。

架空の世界を舞台にした話で、とりあえず新しく町を設定した。すると面白いことに、自分の脳内地図に、新しく町ができて、下手すると成長を始める。
すでにこの脳内地図には、ひびきの森やら近未来のドームの町やらミューズの世界やら、妖が暮らす世界とか、いろいろあってそこに新しく一つ加わった感じ。

物語を作るということは脳内世界をひとつ増やすということで、一度生まれてしまった世界は、それが外の世界に公開されてもされなくても、作者の内側に確かに存在する。もし外の世界へ飛び出し、誰かに読まれ、幸いにも読み手がその世界を気に入って受け入れてくれたなら、その人の内側でもまた増殖を始めるわけで。

それはそれで嬉しいことなのだが、とにかく今は新しい世界が生まれたということをめでたく思いたい。
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久しぶりに宮沢賢治「銀河鉄道の夜」を読み返してみた。

物質界の宇宙と心的世界の宇宙が豊かなイメージによって結び付けられていて、美しいというほかはない。
美しさは極まると、悲しさや恐ろしさ、寂しさに転化するのだけど、その転化のラインを踏み越えていたな。
宇宙の深淵は美しく恐ろしく、静かに哀しいところだ。

賢治の童話は、イーハトーヴと呼ばれる架空の国を舞台にしたものが数多くあるけれど、それは彼の世界観を形にしたものであり、実は作家の頭のなかにはそれぞれのイーハトーヴ的世界があるに違いないと強く思った夜。例えば、ル=グゥィンのアースシー。指輪の中つ国。トーベ・ヤンソンのムーミン谷。&エトセトラエトセトラ。
この6月は本も読まず、ブログの更新をするどころかろくに呟きもせず、何をやっていたかと言うと、200枚の作品を書き上げて投稿してきた。
3年前に投稿しそこねたブツをリライトしてそれらしい形に仕上げてみた。 長編を書いたのは約2.5年ぶり。いっときは書くどころか読むことにまで拒絶反応があったので、今でも書ける力があるんだとわかって安心した。書いていて楽しかったしね。
それにリライトとはいえ、7割近くは新たに書き下ろしたので、よくも3週間で書ききったものだと軽く感動している。もちろん仕事をしながらだし、町内会の雑用はあるし、湯沸器が壊れるアクシデントまで起きる中で、ほんと、よくやったと思う。むしろ忙しいから予定通りノルマをきっちりこなす習慣がついたのだろうか。それとも日常業務と物書きの時間がほどよく交互にとれたので能率が上がったのだろうか。いずれにせよ、良い傾向だ。

せっかく投稿したので、よい結果が出るようにお祈りしておこう。
先日、古い友人と温泉デートをした。
彼女とは、1年~半年に1回のペースで会うのだけど、合うたびに、彼女が私に対して抱いてる印象と、実際の自分の象が微妙にズレたままなのがわかる。
恐らく彼女の中にいるのは学生時代の私であり、あれから私の中身は、以前の自分がどうだったかよく憶えていないほど変わってしまったせいもあって、更新が追いついていないのだと思う。

逆もまた然りで。というか、学生時代、私がきちんと彼女の本質を捕まえていたのかというと、かなり怪しい。自分の見たいものを見たいようにしか見てない年頃だったからね。今、この歳になってようやくありのままの彼女を見つけようとしている。まるで新しく知り合ってゆく友人のように。

私たちはいったい誰を、何を相手にしゃべっているのだろう。ときどきわからなくなる。
「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」
をようやっと読み終えた。
本当は4月中に読み終えているはずだったのが、ありがたいことに某方面から大量に本を貸していただき、そっちの消化で忙しかったのだ。それにヤボ用もたくさん入ったし。

で、春樹ファンとして、期待に満ちて(だって、いかにもそそるようなタイトルw)読み進めたのだが。

途中まではいつもの調子でなかなか面白かった。
ところが最後のクライマックスがあまりにも直球すぎて、物語としての面白みが削がれてしまったような気がする。
これまでの作品では具体的な描写が省かれてきた「暴力」(魂を損ない、人生を曲げてしまう大きな力)について、この作品ではかなりはっきりとした形で描かれている。だから暴力によって傷つけられた主人公たちの回復の手順も比較的わかりやすい。美しい大自然の中、はっきりとした言葉の応報によって傷を受け入れる準備ができる。これがほかの作家なら感動できていたものを、なまじ村上ファンなので物足りなさを感じる。これまでの村上作品は、暗示的でわかりにくさが多かった分、言葉ではどうしても届かない闇の境地へ導かれる感覚があったのに、今回はそれがあまりなかったので残念。

ただ、魂の癒しというテーマは確実に読者の心に届くだろう。深い傷をいかに乗り越えてゆくか、が丁寧に描かれていて、ある種の人たちにはクリティカルヒットに違いないと思わされる。特に主人公と同じか、もう少し若い人たち。十代のころにやらかしてしまったあれこれで、魂に傷がついてしまったままなすすべもなく過ごしてきた人たちにはちょうど良い本なのでは、と思う。
あるいは震災(阪神や東北)で図らずも傷ついてしまった人たちへのエール。作者にしてみれば、いつもの文体をある程度犠牲にしてでも伝えたいテーマだったのかもしれない。

これからインタビュー記事その他に目を通してゆくので、村上氏の思惑が多少はわかってくるかもしれない。
愛読している星占いサイトにて、今週のさそり座についてこんなことが書かれていた。

先週も「人に会う」ことを書きました。
今週も、「出会い」の気配が続いています。
今週は特に、
特別な縁を感じるような出会い、
そこから特別な物語が始まるような出会い、
深く意味を考えたくなるような出会い、
新しい自分を引っ張り出されるような出会い、などの気配が濃厚です。


日頃から引きこもり大好きの自分が、この時期は出会いの季節になるだろうと占いに出ているのを見て、いやいやいやそんなになるわけがないと思っていたが、振り返ってみれば本当に怒涛の出会いだらけだった。

この一週間というもの、普段から付き合いのある人もない人も関係なく、濃い出会いとか語り合いとかが何件も発生した。家族(広い意味での)、職場の人、買い物をしたお店の人、共通の趣味を持つ人などなど。そのたびにMP(RPGで言うところのマジックポイント、つまり魔法を使うための精神力)を激しく消費し、復活するまでに時間をくったわけだが、総合的に見ると何か新たなパワーみたいなものが心の底に蓄積されてゆく感じで悪くない。

でも少し引きこもってこれまでの出会いをきちんと消化したいんだけどな。たまったレシートを丁寧に家計簿につけてゆくみたいに。

それから。はやく物書きができる環境を整えなくては。
今年はぶっちゃけ、大変に忙しい年だ。

町内会長がまわってきた。町内のお世話係だ。こういう自治会関係の組織は土地によって随分違うので、「会長が大変」といってもピンとくる人は少ないだろうし、あまり細々説明することもしないが、まさに「お世話係」という言葉がぴったり来るぐらい雑用が多い。イベントがあればその手配。出席者の取りまとめ、弁当や懇親会の準備・買い出し、会費集め、自治会からのお知らせを回覧板でまわす、苦情受付などなど。

大変だけれど、最近犬の散歩中にふと「町内のお世話をさせてもらっている」という考えが浮かんだ。それから、勤め先の掃除のおばちゃんの「人様の役に立つっていいことだねぇ」という口癖。だんだん実感として身体に染みてくる。自分が動くことで世の中の歯車の一部が回っていることを感じると、軽く快感を覚える。いわゆる「やりがいを感じる」というやつだ。

家に引きこもり、ひたすら物書きに邁進していた頃と比べると、仕事に出ていることや犬の世話をしていることもプラスされてずいぶん日常生活の雑務が増えたなと思う。オケ活動を休止したのでなんとか回っている感じ。もっとも、ピアノの練習にもそれなりに時間を割くので、ビオラをピアノに変えただけ、という話もあるし、何のはずみか読書会まで始めてしまった。

この二年でたくさんの人と知り合い、経験値は大幅に上昇した。これからもこなさなければいけない「お仕事」がそれこそ津波のように押し寄せてくるのがわかる。それらを何とかかい潜りせっせと働き、一段落した先には何があるのだろうか。そもそも「一段落」が来るのだろうか。

経験値がそのまま物書き力に反映されれば言うことないんだけどなー。
今日読んだ文庫本はそんな話だった。好みといえば好みだ。

他人のうちにある虚空に触れると、それが自分の中にある虚空と共鳴しあうのでそれとわかる。

昔は生々しかったそも、今となっては、そういえば自分の中にもそういうものがあったっけ、的な感触になってしまったが、あるものはある。いや、ないものがある、というべきか。

でも、ふだんはほんとにもう自分の中の虚ろを意識しなくなってしまい、かつてそこを占めていたものがあったという記憶すらなくなってゆく。自分が何者であったかの記憶があやふやになってゆく。この忘れっぽさはあの蝶みたいだ。人の思考に卵を産むという架空の蝶。
上海から帰ってきて1週間ほどたつが、まだ気持ちが落ち着かず、自分のテリトリーに帰ってきたのに他所の家にいるよう。
約1週間かけた北海道旅行だって帰宅した翌日から通常営業だったのに、今回はいつまでたっても異国の地にいるみたいな感覚が抜けない。まるで魂の一部がふらふらとどこかをさまよっているような気がして、日常生活を送るだけでも実はしんどい。
もっとも、ただぼーっとしてたわけではなく、旅の後片付けはきっちりしたし、実家に来た妹家族と遊び、本を2冊読んだ。エイプリルフールの仕込みもちゃんとやった! 
行動だけトレースするといつも通りに動いているのにもかかわらず、認識としては身体だけ動いて心がどこかに取り残されている感がありありで、だからtwitterは読めない、書き込めない、旅行記は下書きから進まない。

いったい、何を何処に置いてきたんだか。
その昔、アメリカ文学をかじる学生だったころ、ゼミで教授が「オー・ヘンリーの作品は文学ではない」と宣ったことがあり、その時は深く考えることもできず、そういうものなのかと記憶に留めおくだけだった。
今、Facebookにしばしば現れる「いい話」を読んでいると、ああそういうことだったんだな、と、教授の意味するところが腑に落ちるようになった。

シェアされて回ってきたり、あるいは企業広告の前振りとして「ちょっといい話」は少なくとも3日に一回の割合で目撃する。白い方の都市伝説とでもいうべきこれらの話は、どれも一種の匂いみたいなものを振りまいていて、それは某2ちゃんねるの「泣ける話」とか、いい話のコピペ板とかとよく似てる。
最初は本当に事実としての「いい話」があったかもしれないが、それが人から人へと伝わるうちに尾ひれ背びれがつき、フィクションとして完成度を高めつつ、またバージョン違いを生み出しつつ、あちこちに広がる。
「イイネ」はその時の気分によって押したり押さなかったり。その話が事実かどうかなんて関係なく、精神にとってはお菓子やジュースの類といっしょで、一時的に気分が良くなるだけのものだからね。

オー・ヘンリーは、確かにニューヨークで売れっ子になった。彼はきっと、どんなふうに「ちょっといい話」を作れば人々に受けるのかがよく分かっていたのだろう。それは「イイね」が欲しくて感じのいい記事をせっせとネットに上げる行為、あるいは人寄せをするためにいい話を利用するコマーシャル的投稿と根っこの部分で通じている。

別にそういう清涼飲料水みたいな話はあっていい。ただ、文学とは違う、というだけのことだ。



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