心のつぶやきを吐き出す裏ブログです。
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〈管理人名〉 O-bake
〈趣味〉 創作とクラシック音楽
〈主な内容〉
創作に関する覚書
ごくたまに掌編を掲載
テリトリーは童話からYAまで
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時々、言葉が足りないために意味不明な文章があったり、攻撃的な文章がありますが、ここは毒吐き場なので、どうぞ見過ごしてやってください。
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びおら弾きの微妙にズレた日々
(一方通行です)
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ミュージカル「おにころ」のBD版を関係者のみの上映会で見てきた。
どんな物語かというと、神流川に流れさてきた鬼の子「おにころ」が人間の夫婦に拾われて育てられるところから始まり、村人によく思われないながらも、鬼らしからぬ純朴な性格で少しずつ村社会に溶け込んでゆくが、やがて神流川の水量が減って水争いがおき、人の血が流された時、おにころは秘められた力を発揮して川の水を豊かにし、両岸に公平に分配できるよう、川の中の岩となった。という話。
演出や振り付けは工夫が凝らされた跡が見え、とても楽しめた。歌手の皆さんの仕事ぶりがとても素晴らしい。特に悪役代表の二人、庄屋と庄屋の腰巾着が抜きん出て歌も演技もバッチリ。ヒロインは可憐。ソプラノだけれど、アルトを思わせる豊かな響きがしてとても良かった。主役のおにころは、雰囲気がよく出ていたけれど、なにしろ……大きいですね。
どんな物語かというと、神流川に流れさてきた鬼の子「おにころ」が人間の夫婦に拾われて育てられるところから始まり、村人によく思われないながらも、鬼らしからぬ純朴な性格で少しずつ村社会に溶け込んでゆくが、やがて神流川の水量が減って水争いがおき、人の血が流された時、おにころは秘められた力を発揮して川の水を豊かにし、両岸に公平に分配できるよう、川の中の岩となった。という話。
演出や振り付けは工夫が凝らされた跡が見え、とても楽しめた。歌手の皆さんの仕事ぶりがとても素晴らしい。特に悪役代表の二人、庄屋と庄屋の腰巾着が抜きん出て歌も演技もバッチリ。ヒロインは可憐。ソプラノだけれど、アルトを思わせる豊かな響きがしてとても良かった。主役のおにころは、雰囲気がよく出ていたけれど、なにしろ……大きいですね。
内容については、民話風の創作物語だが、日本らしからぬ「自己犠牲の精神」や天を流れるという「光の川」が重要なモチーフとなっており、最終的にはエゴイズムにまみれていた村人たちが「愛を取り戻す」というのがテーマ。なんというか、日本のアニミズムの中にキリスト教的な考え方を合体させた、ある意味キメラな作品。非常にユニークだと思う。
天を流れる光の川と天の川の区別はどうやってつけるのだろう、『蟲師』では生命の川は二つ目のまぶたを閉じた暗やみのその奥にあることになっているし、自分的にもそういう「川」はどこか世界の深い所や少しだけ次元のずれた場所を流れているような気がしてならないし……というツッコミは野暮なので脇に置いておくとして、気になる点はいくつかあった。
ひとつは、忌み嫌われているはずの「鬼」の子をなぜ人間の夫婦が拾い育てる気になったのか。いくら「大人しそうで鬼っぽくない」といっても、鬼の子とともに暮らすリスクは大きい。村人たちから疎まれるのはもちろんのこと、今は大人しそうに見える鬼の子でも、成長するにつれて鬼の本性が表に出てくるかもれしない。もしこれが夫婦の危機を救って命の恩人になったから、という流れであれば納得しやすかったかなあと思う一方で、むしろそこにいるだけで場が和むから、というのが理由なら、それはおにころの光の資質をほのめかしていて、これは逆に物語の本質に触れる導入部になるだろうし、異分子を受け入れることのできる度量のある夫婦という意味付けもできるだろう。
もうひとつのツッコミはテーマとなる「愛」についてだが、「愛を取り戻す」というものの、そもそも、この物語の中でいうところの「愛」は以前から人のもとにあったというのだろうか。敵味方関係なく許し合う高次元の「愛」は、これから人が獲得しなくてはいけない、新しい概念ではないのかという気がするのだが。もっともこの「愛」が仏教でいうところの「仏性」のようにすべての人の中に可能性として組み込まれているというのなら、話は別だ。というか「愛を取り戻せ」じゃなくて「愛を咲かせよう」になるんじゃないだろうか。
逆に、この物語で「ほお」と思ったのは、人がどん底に落ちて初めて「光の川」を認識するところ。おにころにしても、おにころの養父にしても、もうこれ以上どうにもならないところまで追いつめられた時に、ふっと見えるのだ、天上を流れる光の川が。これもキリスト教的な価値観だなと思う。絶望の淵に沈まないと、人は神の光に気づかない。むしろ、これこそが「おにころ」のエッセンスではないのかなあと思った次第。
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