心のつぶやきを吐き出す裏ブログです。
ブログのプロフィール
〈管理人名〉 O-bake
〈趣味〉 創作とクラシック音楽
〈主な内容〉
創作に関する覚書
ごくたまに掌編を掲載
テリトリーは童話からYAまで
〈お願い〉
時々、言葉が足りないために意味不明な文章があったり、攻撃的な文章がありますが、ここは毒吐き場なので、どうぞ見過ごしてやってください。
〈連絡先〉
管理人へのメッセージは、こちらのフォームからどうぞ
〈本家ブログ〉
びおら弾きの微妙にズレた日々
(一方通行です)
〈趣味〉 創作とクラシック音楽
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創作に関する覚書
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びおら弾きの微妙にズレた日々
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今日書きたいことは、タイトルそのまんま。
現在、ある長編に取り組んでいるのだけれど、それがもう楽しくて楽しくて。たまたま雑用の少ない時期で、世俗のことに邪魔されず、家事と仕事以外の時間を物書きに投入できる。しかも、書いた作品がそれなりにモノになりつつある。
これって長年追い求めてきた至福の時間じゃね?
と思ったとき、今の環境に至るまで道筋をつけてくれた何者かに対して、強烈に感謝したくなった。でもどこにむけて手を合わせればよいのやら。
現在、ある長編に取り組んでいるのだけれど、それがもう楽しくて楽しくて。たまたま雑用の少ない時期で、世俗のことに邪魔されず、家事と仕事以外の時間を物書きに投入できる。しかも、書いた作品がそれなりにモノになりつつある。
これって長年追い求めてきた至福の時間じゃね?
と思ったとき、今の環境に至るまで道筋をつけてくれた何者かに対して、強烈に感謝したくなった。でもどこにむけて手を合わせればよいのやら。
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一年の振り返りのために、ブログやFBを読み返してみると、2014年はとにかく忙しかった割にその自覚が薄かったことに気づいた。
効率よく、たくさんのことをこなせるようになったのは確かだけども、振り返りのためにぼーっと過ごす時間が少なくて、そのために印象に残るべきことがらが残っていないというか。海の表面ばかり波立てて、深層まで動きが届いていないイメージ。人の意志は深層意識から生まれてくるからね。そして体験が深層意識に届くには時間がかかる。
効率よく、たくさんのことをこなせるようになったのは確かだけども、振り返りのためにぼーっと過ごす時間が少なくて、そのために印象に残るべきことがらが残っていないというか。海の表面ばかり波立てて、深層まで動きが届いていないイメージ。人の意志は深層意識から生まれてくるからね。そして体験が深層意識に届くには時間がかかる。
あ、間違えた。「やる気」をもらった。だった。
長年積ん読になっていた、ル=グィンの「夜の言葉――ファンタジー・SF論」を読了した。
あまりわかり易い言葉では書かれておらず、かつては途中で挫折したものだけど、今は「闇の左手」や「風の12方位」を読んだ勢いで、ル=グィン氏の言葉がするする入ってくる。あるいは勢いだけでなく、こっちの受け入れ態勢もある程度整ったせいかもしれない。
長年積ん読になっていた、ル=グィンの「夜の言葉――ファンタジー・SF論」を読了した。
あまりわかり易い言葉では書かれておらず、かつては途中で挫折したものだけど、今は「闇の左手」や「風の12方位」を読んだ勢いで、ル=グィン氏の言葉がするする入ってくる。あるいは勢いだけでなく、こっちの受け入れ態勢もある程度整ったせいかもしれない。
はやいもので2014年のゴールが見えてきた。自分はまたひとつ年を取り、今年はいったい何をしてきたんだと気になってきたので、主なイベントだけでもまとめてみようと思う。
音楽系
5月に長久手フィルの定期に出る。曲目は、シベ1、ベト8、ヘングレ。おお懐かしい面々。
10月は祝祭感で、大曲に挑戦。ブル8、バッハのドッペルコンチェルト、マイスタージンガー。お腹いっぱいにもほとがある。
聞きに行った演奏会で印象に残ったのはブラリンオケのブラ4+Pコン。悪くはなかったが裏話を聞くと相当大変そうだった。
まとめ:今年はいい感じでお付き合いできたんじゃないかと思う。てゆうか土日関係なしの仕事をしていて、よくもステージに乗れたものだと。
そうそう、ピアノは今年一年お休み中。
物書き系
通信の添削指導講座を申し込んでみる。これは良い。細かい文章のクセまできちんと見てもらえる。そして自分の問題点を把握。
公募は3回出したが、うち2つは結果が出ない。あとひとつは審査中。
今の時期に問題発生。今後書く作品の方向性が定まらない上に、創作のための時間がとれなくなっている。
読書系
テーマを決めての読書をした。児童向けSFのおすすめを30冊読んでみる。これは面白い試みだった。児童書のお約束が見えてくる。
最終的な年間読了数は昨年と同じくらいになりそう。
児童書の読書会は小規模ながらちゃんと続いているし、内容は濃い。
初めてSF読書会というものに参加してみた。これはきちんと組織されプロの人もいる本格的読書会。たぶん視野が広がる。
お出かけなど
今年はよく出かけた。いろんなつながりの人とランチに出かけたり観光に出かけたり。
行き先は近場の評判のカフェレストランとか、犬山見物、名古屋市内散策、美術館、大学構内散歩などなど。一月に1~2回のペースで。
この年になってようやくオトナの遊び方を覚えたというか、いったいなにが起きたんだ自分?
そして十数年ぶりに大学の同期と会う。学生当時とは違う目で彼/彼女たちを見ることができて味わい深い再会。
人の縁
今年は増えた。年初に参加した自己啓発セミナーの人、読書会つながりで親しくなった人、オケ活動を通じて新しく知り合った人たち、以前からの知り合いで付き合いが復活した人、などなど。FBでは広く浅いつながりが増え、リアルでは再会→濃いつながりへ発展する。これが今後どんな作用をもたらすか楽しみ。
今後の課題
色んな人とのやりとりを通じて気がついたのは、そろそろ与える側にまわらなくてはなぁ、ということ。教えてもらったり情報を受け取ったりするばかりではなく、逆に人に何かを教えたり情報を提供したりする立場に変わるべき時がきたと思う。そのための準備を少しずつ始めているところ。
音楽系
5月に長久手フィルの定期に出る。曲目は、シベ1、ベト8、ヘングレ。おお懐かしい面々。
10月は祝祭感で、大曲に挑戦。ブル8、バッハのドッペルコンチェルト、マイスタージンガー。お腹いっぱいにもほとがある。
聞きに行った演奏会で印象に残ったのはブラリンオケのブラ4+Pコン。悪くはなかったが裏話を聞くと相当大変そうだった。
まとめ:今年はいい感じでお付き合いできたんじゃないかと思う。てゆうか土日関係なしの仕事をしていて、よくもステージに乗れたものだと。
そうそう、ピアノは今年一年お休み中。
物書き系
通信の添削指導講座を申し込んでみる。これは良い。細かい文章のクセまできちんと見てもらえる。そして自分の問題点を把握。
公募は3回出したが、うち2つは結果が出ない。あとひとつは審査中。
今の時期に問題発生。今後書く作品の方向性が定まらない上に、創作のための時間がとれなくなっている。
読書系
テーマを決めての読書をした。児童向けSFのおすすめを30冊読んでみる。これは面白い試みだった。児童書のお約束が見えてくる。
最終的な年間読了数は昨年と同じくらいになりそう。
児童書の読書会は小規模ながらちゃんと続いているし、内容は濃い。
初めてSF読書会というものに参加してみた。これはきちんと組織されプロの人もいる本格的読書会。たぶん視野が広がる。
お出かけなど
今年はよく出かけた。いろんなつながりの人とランチに出かけたり観光に出かけたり。
行き先は近場の評判のカフェレストランとか、犬山見物、名古屋市内散策、美術館、大学構内散歩などなど。一月に1~2回のペースで。
この年になってようやくオトナの遊び方を覚えたというか、いったいなにが起きたんだ自分?
そして十数年ぶりに大学の同期と会う。学生当時とは違う目で彼/彼女たちを見ることができて味わい深い再会。
人の縁
今年は増えた。年初に参加した自己啓発セミナーの人、読書会つながりで親しくなった人、オケ活動を通じて新しく知り合った人たち、以前からの知り合いで付き合いが復活した人、などなど。FBでは広く浅いつながりが増え、リアルでは再会→濃いつながりへ発展する。これが今後どんな作用をもたらすか楽しみ。
今後の課題
色んな人とのやりとりを通じて気がついたのは、そろそろ与える側にまわらなくてはなぁ、ということ。教えてもらったり情報を受け取ったりするばかりではなく、逆に人に何かを教えたり情報を提供したりする立場に変わるべき時がきたと思う。そのための準備を少しずつ始めているところ。
あれからお遊び強化月間は続いていて、読書も進まなければ物書きも進まない。
特に後者が深刻で、時間ができた、さあじっくり座って何か書こう! と思っても頭のなかは空っぽ。恐ろしいことに何も浮かんでこない。
これはもしや、ブルックナーで気力を使い果たしたせい?→充電しよう→本を読もう→まだ空っぽ→本をおいて外へ出よう(遊び)→ますます物書き脳は鈍る
という悪循環に陥っている気がする……_| ̄|○
特に後者が深刻で、時間ができた、さあじっくり座って何か書こう! と思っても頭のなかは空っぽ。恐ろしいことに何も浮かんでこない。
これはもしや、ブルックナーで気力を使い果たしたせい?→充電しよう→本を読もう→まだ空っぽ→本をおいて外へ出よう(遊び)→ますます物書き脳は鈍る
という悪循環に陥っている気がする……_| ̄|○
ここしばらく、公募用作品書き&読書&楽器の練習に加え、お遊びの予定がたびたび入って、どう考えても一日30時間ないとまわせないような日々を送っている。
楽しいというか、充実していることはわかっているのだが、疲れる。そのしわ寄せがどこに来るかというと、今のところ楽器。はい、必要最低限しか練習してません。
自分が弾けなくても他の人がカバーしてくれるからまあいいや、とか、レベルの高い管楽器の響きにうっとりしながら楽しく弾ければいいや、とか、いわゆる「悪魔のささやき」の類が頻繁に頭の中をぐるぐるまわる。
音楽の演奏会は、潔いほどに後に残らない芸術で、いくら「あれはいい演奏だった」という評判が聞けても、それは個人の主観による判断であり、また一過性のものなので時がすぎて記憶が薄くなれば消えてしまう。ひどい演奏にしても同じこと。演奏会の成果は失敗しても成功しても川の流れのように過ぎ去ってゆく。
だから、あまり頑張りすぎてもな~と、つい思ってしまう。時間がたっぶりあるときなら好きなだけ練習すればいいのだが、ほかにもやりたいことがありすぎる。
などとつらつら考えていたら、サリンジャーが書いた「フラニーとゾーイ」という短篇集の中に登場する「太ったおばさん」のことが頭をよぎった。
フラニーとゾーイーには敬愛する兄シーモアがいて、シーモアはこれからラジオ出演に行くという幼い弟妹たちに告げた。「太ったおばさんのために靴を磨きなさい」と。ラジオなのだから出演者がどんな身なりをしていてもリスナーにはわからないはずなのに、シーモアはそう教えた。
「太ったおばさん」というのは、病気で動けずひがな一日籐椅子にすわって大音量でラジオを聞いているような人、生活の楽しみがラジオしかないような人のことで、実際はおじいさんでも若者でもよく、つまるところラジオ出演者がその人のためにこそきちんと演じようと思える人なのだと、フラニーもゾーイも理解している。
「太ったおばさん」は架空の人だ。特定の誰かではない代わりに、どこにでもいて、時に実在の人の姿を借りて現れる。このことを私自身体験した。→★(当時のブログ。最後のほうにちらりと書いてあります)
昔のピアノ発表会の時にはひとりだった「太ったおばさん」が、今度の演奏会の会場には大勢いるであろうことを肝に銘じなくてはいけない。
楽しいというか、充実していることはわかっているのだが、疲れる。そのしわ寄せがどこに来るかというと、今のところ楽器。はい、必要最低限しか練習してません。
自分が弾けなくても他の人がカバーしてくれるからまあいいや、とか、レベルの高い管楽器の響きにうっとりしながら楽しく弾ければいいや、とか、いわゆる「悪魔のささやき」の類が頻繁に頭の中をぐるぐるまわる。
音楽の演奏会は、潔いほどに後に残らない芸術で、いくら「あれはいい演奏だった」という評判が聞けても、それは個人の主観による判断であり、また一過性のものなので時がすぎて記憶が薄くなれば消えてしまう。ひどい演奏にしても同じこと。演奏会の成果は失敗しても成功しても川の流れのように過ぎ去ってゆく。
だから、あまり頑張りすぎてもな~と、つい思ってしまう。時間がたっぶりあるときなら好きなだけ練習すればいいのだが、ほかにもやりたいことがありすぎる。
などとつらつら考えていたら、サリンジャーが書いた「フラニーとゾーイ」という短篇集の中に登場する「太ったおばさん」のことが頭をよぎった。
フラニーとゾーイーには敬愛する兄シーモアがいて、シーモアはこれからラジオ出演に行くという幼い弟妹たちに告げた。「太ったおばさんのために靴を磨きなさい」と。ラジオなのだから出演者がどんな身なりをしていてもリスナーにはわからないはずなのに、シーモアはそう教えた。
「太ったおばさん」というのは、病気で動けずひがな一日籐椅子にすわって大音量でラジオを聞いているような人、生活の楽しみがラジオしかないような人のことで、実際はおじいさんでも若者でもよく、つまるところラジオ出演者がその人のためにこそきちんと演じようと思える人なのだと、フラニーもゾーイも理解している。
「太ったおばさん」は架空の人だ。特定の誰かではない代わりに、どこにでもいて、時に実在の人の姿を借りて現れる。このことを私自身体験した。→★(当時のブログ。最後のほうにちらりと書いてあります)
昔のピアノ発表会の時にはひとりだった「太ったおばさん」が、今度の演奏会の会場には大勢いるであろうことを肝に銘じなくてはいけない。
大学オケの顧問の先生がこの2月に亡くなり、今日はOB・OGによる追悼演奏会だった。
参加者募集のメールが届いた時、乗ろうかどうしようか迷い、結局練習予定日がいつになるかわからなかったので、見る側にまわることにした。
参加者募集のメールが届いた時、乗ろうかどうしようか迷い、結局練習予定日がいつになるかわからなかったので、見る側にまわることにした。
昨年に引き続き、今年も某公募に200枚の作品を提出した。昨年は竜の話だったけれども、今年はミューズです、女神様です。
今回は書いていて本当に楽しかったけれど、いつもの悪い癖で、一度最後まで組み上げた物語をその場のノリで組み替えてしまい、結果、時間が足りなくなるという……。
今回は書いていて本当に楽しかったけれど、いつもの悪い癖で、一度最後まで組み上げた物語をその場のノリで組み替えてしまい、結果、時間が足りなくなるという……。
この春にちょっと変わった出会いをしまして。
普段は聞き役にまわる自分が、聞いてもらう立場になりました。家族以外では初めてです。
「聞いてもらう立場」って意外と恐ろしいものだと知りました。自分の心の中をさらけだしちゃいますからねー。さらけ出した上で万が一否定されたりしたら、もう逃げ場がないわけです。スカートはいて崖っぷちに立つようなスースー感がありました。
でも、その怖さを乗り越えるとか、慣れるとかすると、新しい人間関係の形が見えてくることもわかりました。新しい自分の姿も見えます。今まで通りに自分を否定しながら生きてゆくスタイルがどんなものかもよく見えます。すると、否定にも肯定にも好きな方に回れるので便利です。選ぶ自由が一つ増えて、また「道化師の蝶」レベルが上がったかも。
もうね、自分は欠落を傍らにおいて生きる生き方を選択してしまって、それがすっかり心身ともに馴染んでしまったというのが、嫌でもわかりましたね。だから自由度が高いんですが。
普段は聞き役にまわる自分が、聞いてもらう立場になりました。家族以外では初めてです。
「聞いてもらう立場」って意外と恐ろしいものだと知りました。自分の心の中をさらけだしちゃいますからねー。さらけ出した上で万が一否定されたりしたら、もう逃げ場がないわけです。スカートはいて崖っぷちに立つようなスースー感がありました。
でも、その怖さを乗り越えるとか、慣れるとかすると、新しい人間関係の形が見えてくることもわかりました。新しい自分の姿も見えます。今まで通りに自分を否定しながら生きてゆくスタイルがどんなものかもよく見えます。すると、否定にも肯定にも好きな方に回れるので便利です。選ぶ自由が一つ増えて、また「道化師の蝶」レベルが上がったかも。
もうね、自分は欠落を傍らにおいて生きる生き方を選択してしまって、それがすっかり心身ともに馴染んでしまったというのが、嫌でもわかりましたね。だから自由度が高いんですが。
ホームオケの本番が終わって一週間後、もう一つのオーケストラの練習に顔を出す。ブルックナー8番の練習。
その日は仕事がどうしても休めず、午前のみの出席になってしまう上、ろくにさらってもいないのだが、弾けても弾けなくても音楽の中に身をおくことは大事だし、せっかく本番前の(やけくそ的な)猛練習でエンジンがかかってきた腕や手を怠けさせたくないもので。
しかし、行ってみれば出席率はあまりよろしくない。たまたま近隣のオーケストラで来団練習が何件かあったようで、掛け持ちしている奏者はそちらに行ってしまったらしい。特にビオラとかチェロとか1プルートです。ベースは無人だったし。
それでも壊滅的にならない中低弦。弾ける人がちゃんといて支えていたからだった。全然できない組の自分は、ブル8は2回めだというビオラトップとチェロの大先輩に挟まれて、非常に美味しい思いをしながらなんとか3楽章をしのぐことができた。
弾ける人の隣に座るととても楽。ピッチや呼吸はすべて合わせればいいし、合わせながら弾き方や音程もマスターできるし、同じ2時間の練習でも得られる情報量は普段の倍、もしくはそれ以上になる。他の楽器も上手い人が多いせいか、スムーズに音楽の中に入れてとても楽しい。
実は、いつもホームオケでは弾いても弾いても不完全燃焼の感があって、なんでだろうとずっと疑問に思っていた。先日の練習と比較して思うに、音楽がバラバラしていて一体感が得られないからなんだろうねえ。これは技術の問題もあるけれど、やはり合わせようという意志が足りなかったり、全体の中の一部分を演奏している、という意識が少なかったり、そもそも音楽が一体となった美味しい瞬間をあまり体験してないせいもあるんじゃないかと思った。
例えば、本番で弾いたベートーヴェンの8番。お客さまの反応はともかく、団員の中では「弾いていて楽しかった」という声が聞こえて、ああいう楽しさが合奏のたびに味わえたら、そりゃ練習に熱も入るというもの。
その日は仕事がどうしても休めず、午前のみの出席になってしまう上、ろくにさらってもいないのだが、弾けても弾けなくても音楽の中に身をおくことは大事だし、せっかく本番前の(やけくそ的な)猛練習でエンジンがかかってきた腕や手を怠けさせたくないもので。
しかし、行ってみれば出席率はあまりよろしくない。たまたま近隣のオーケストラで来団練習が何件かあったようで、掛け持ちしている奏者はそちらに行ってしまったらしい。特にビオラとかチェロとか1プルートです。ベースは無人だったし。
それでも壊滅的にならない中低弦。弾ける人がちゃんといて支えていたからだった。全然できない組の自分は、ブル8は2回めだというビオラトップとチェロの大先輩に挟まれて、非常に美味しい思いをしながらなんとか3楽章をしのぐことができた。
弾ける人の隣に座るととても楽。ピッチや呼吸はすべて合わせればいいし、合わせながら弾き方や音程もマスターできるし、同じ2時間の練習でも得られる情報量は普段の倍、もしくはそれ以上になる。他の楽器も上手い人が多いせいか、スムーズに音楽の中に入れてとても楽しい。
実は、いつもホームオケでは弾いても弾いても不完全燃焼の感があって、なんでだろうとずっと疑問に思っていた。先日の練習と比較して思うに、音楽がバラバラしていて一体感が得られないからなんだろうねえ。これは技術の問題もあるけれど、やはり合わせようという意志が足りなかったり、全体の中の一部分を演奏している、という意識が少なかったり、そもそも音楽が一体となった美味しい瞬間をあまり体験してないせいもあるんじゃないかと思った。
例えば、本番で弾いたベートーヴェンの8番。お客さまの反応はともかく、団員の中では「弾いていて楽しかった」という声が聞こえて、ああいう楽しさが合奏のたびに味わえたら、そりゃ練習に熱も入るというもの。