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心のつぶやきを吐き出す裏ブログです。
ブログのプロフィール
〈管理人名〉 O-bake

〈趣味〉 創作とクラシック音楽

〈主な内容〉
創作に関する覚書
ごくたまに掌編を掲載
テリトリーは童話からYAまで

〈お願い〉
時々、言葉が足りないために意味不明な文章があったり、攻撃的な文章がありますが、ここは毒吐き場なので、どうぞ見過ごしてやってください。

〈連絡先〉
管理人へのメッセージは、こちらのフォームからどうぞ

〈本家ブログ〉
びおら弾きの微妙にズレた日々
(一方通行です)
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「人を人たらしめるものは何か?」
【リリ・タール インタビュー記事 1000 und 1 Buch誌 2003年11月号より】

「ミムス――宮廷道化師」の作者、リリ・タールへのインタビュー。
歴史物を書く醍醐味、注意点など挙げられていて興味深い。


自分に課したのは、「どのようであったか?」を追求することではなく、「決してこれはあり得なかった」ことをできるだけ排除しつつ、でも
「ひょっとしたらこうだったかもしれない」という程度の正確性で時代を反映させることでした。これならば、「時代の精神」を想像することは
難しいどころか、楽しい作業でした。思いきり想像の翼を広げ、時空の旅をするのは大きな魅力です。




いいなぁ。いつかこんな風に史実を元にしながらも、自由な発想で物語を作ってみたい。
※「ミムス」について、拙宅での感想文はこちら→
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2011年2月15日 @takagengen(高橋源一郎) さんのつぶやき「深夜ラジオ」より

★「文章」21・ぼくは「和讃」のことは知らない。だが、字も知らず、読めない農民たちは、それを耳で覚え、口で囃した。中身は、「この世は虚しい、やがて人は死ぬ」といったものだ。それをこころの支えに、貧しい農民たちは生きたのである。ぼくは「和讃」を聞いた時、似たものがあることに気づいた。
★「文章」22・「黒人霊歌」だ。たとえば、「深い川」の歌詞は、木村センの遺書に出てくる「じょど」の世界を歌っているようだ。「深い川よ わたしの故郷、カナンはヨルダン川の向こうにある/深い川よ 神さま、わたしは川を渡って集いの地へ行きたい/ああ、あの祝福された宴へ行きたくはないか?」
★「文章」23・「あの約束の地、穏やかな安住の地へ/ああ、深い川よ、神さま、わたしは川をわたって集いの地へ行きたいのです」。苦しい労働に従事しながら、黒人奴隷たちは、この歌を歌った。暗い歌だ。だが、この暗さを通過しなければ、彼らは生きる力を持つことができなかったのだ。
本来は音楽ネタなので、表用の記事ですが、愛称とはいえ個人名が出るので、裏にのせておきます。
今、世間を賑わせている大相撲の八百長事件について、ツイッターを見ているといろんなタイプの反応がある。

-真剣勝負の世界で八百長などあり得んと怒る人。
-あまりに度が過ぎる糾弾に対して拒絶反応を起こす人。
-メディアで取り上げすぎだ、他にもっと重要なニュースがあるだろうと眉をひそめる人。
-悪いのは力士ではなくそれを指示した上層部だと、かばう人。

どれもどれもどれ、な感じだけど、自分的には「糾弾もほどほどに」てところかな。

相撲をスポーツとして捉えれば八百長はナシだけど、人々を楽しませるための興行としてみれば、観客に感動を与えるための演出を抜きにするわけにはゆかない。プロレスもそう。江戸時代から人々を楽しませてきた相撲というイベントは、ただ勝てばいい、というスポーツとは違い、演出込みの真剣勝負をするものだと思う。もちろん舞台裏は見せるべきではないけど。

そうやって考えると、今回の騒動で何がマズかったかって、八百長そのものではなく、それが表に出てしまったことだろうね。手品と同じ。みんなタネがあるとわかっていながらも真剣でスリリングな演出に翻弄され、楽しむ。

世の中どこかで狡いこと、正か邪かで分けたら邪に入る行為が行われているけど、案外それはそれで秩序の維持に役立って居るんだろうと思う。だいたい、人間そのものが正と邪の混合体なんだから。
正論ばかりの世界って、あり得ないと思うし、あってたとしても悪がはびこる世の中と同じくらい住みにくいだろうね。うまくバランスを取る智恵を望む。
効率よく物事を進められる反面、自分の頭を使ってあれこれ考えるチャンスが減るのではないかと気がついた。

物事の発端は娘の数学力不足。彼女は生来めんどくさがりなところと、まめな所が奇妙にミックスしている性格で、パソコンで使うフリーソフトなんかは自力で発掘→インストール→愛用している。わからないことはすぐgoogle先生に聞いて解決。下手に人に聞くより手っ取り早くて正確だからだ。
これはこれで全然OKなのだが……。
表のブログを分割したついでに、ここも移動することにしてみました。

ここはそんなに記事数が多いわけではなく、また「ほそぼそと公開」という、よそのブログではあり得ない設定できるところがミソだったのですが、はてなに移ると、ブログを本にしてもらえるサービス(有料ですが)があるのです。

表はともかく、ここの記事は残しておきたいと思ったし、はてなのサービスがどのくらい使えるのかも知りたかったので、記事を全部移して新装開店と相成りました。

今のところ、引っ越し先の公開設定はパスワード制にしてあります。過去に書き散らしたあんな話こんな話が無防備にさらされていますので。

引っ越し先→ http://d.hatena.ne.jp/O-bake/
パスワードは「back to nowhere」です。はい、このブログのタイトルそのもの。

この場所はしばらく残しておきますが、更新は新ブログの方で行いますので、時々のぞきに来てやってください。もちろんRSSフィードも使えます。ブログタイトルの横にボタンがあります。

追記
結局三ヶ月で戻ってきたという気恥ずかしい後日譚→
先日、速読トレーニングの本を買った。少しでも読書スピードが上がれば、何かと役に立つことが多いだろうと思って。(と、これは前々回の記事からのコピー)


コミックは確かにスピードアップしたが、読書のペースが本当に上がったかどうかは定かではない。
そして、三日前、久しぶりにマーラーの楽譜と対峙したとき、楽譜を読むのが楽になっていることに気がついた。楽譜の段が下に移り変わるとき、これまでだと、「うっ」と一瞬詰まって、それが落ちる原因になったりするのだが、それがスムーズに移れる。弾いている次の小節の内容が何となく視野に入る、音符のひとつひとつがよりはっきり見える気がする、カウント間違いが減る、など。
もっと早く速読トレーニングに手をつけていれば、幻想をさらった時の苦労だって少しは減ったかもしれない。

実は、昨年の秋からずっと、まともに作品を書いていない。本ばかり読んでいる。
というのも、いくら書いても進歩が見えないので焦っていたのと、この辺でインプットしないと枯れてしまう、という気持ちがあったのと、もう一つ、帆船が港で風を待つように、何かが来るのを半ば無意識のうちに待っていたからだった。どんな作品を手がけようと、作品の核として存在する「何か」、言い換えれば作品の存在理由となる「何か」をしっかり捕まえなくてはいけないと感じていた。
ある人は作品を通じて愛を語り、ある人は正義を語り、ある人は宿命を語る。私の場合は何だろう?

最初の予想では、11月あたりに来るかな、と思った。でも、11月は外面的にはひどく忙しかったものの、待っている何かはまだ来なかった。12月になって少し落ち着いて、前々から読みたかった村上春樹に取りかかってみた。あるいは彼の物語の中にヒントが隠れているかもしれないと思って。ところが、非常に楽しく読み、いろんなことを考えたにもかかわらず、「何か」は見つからない。怒濤の年末&お正月がすぎて正気を取り戻したころに、ようやく「それ」はやってきたのだった。しかも小説でもドキュメンタリーでもなく、「少し時間がとれたから試しに読んでみよう」と手に取ったコミックの中に紛れていたのだった。

それから何であるかは、当分内緒。いずれ、作品の中で昇華されるはず。




表のブログでも書いたけど、速読トレーニングをしたら、ちょっとだけ読むスピードが上がった気がする。それもコミックの。
最近、「銃夢 Last Order」にはまってしまって、物書きはそっちのけで鬼のように読んでる。
めちゃくちゃ強いサイボーグ少女が、激しいバトルを繰り返しつつ自分の使命を探し出す話。この話、濃い脇キャラが次から次へと登場して、むしろ、主人公より面白いぐらい。マッドサイエンティストでありながら名言botのような博士、主人公のコピーとして作られながら、性格は全然違ってしまったやんちゃな戦闘アンドロイド少年(←一番楽しませてくれるキャラ)とか、落ちぶれた天才ハッカーとか、遺伝子変異体としてのバンパイアとか。
それでも、腐っても主人公ということで(おいv)サイボーグ少女の生き方が一番惚れ惚れする。強い女性が好きなんだよねぇ。

ああ、でも女性だけじゃないよ、バナナフィッシュのアッシュの生き様も好きだった。

前から気になっていた、パウロ・コエーリョの「アルケミスト」を読んだ。ファンタジーの基本をこれでもかというぐらいに押さえた良い寓話だった。
また、世に出たのが1988年ということを考えると、今日本で流行っている「信じれば夢を叶う」の元祖かな、という気がしないでもない。もちろん信じると言っても、この本では、それがいかに難しいかが描かれているわけで。誰にでも可能だけど、誰もが成功するわけではない。

以上は前振り。さて、この物語の中には、人種の違いはおろか、人と動物、植物、砂漠の砂にまで通じる特別な言葉が登場する。それが「大いなる言葉」。具体的に言葉を話すのではなく、心で感じ取る種類の言葉らしい。
この言葉を見たとき、「ああ、音楽にも同じものが流れているな」と思った。ときどき、音楽の流れの中に作曲者の意志の流れみたいなものを感じることがあって、それはリアルで誰かと話している時に感じる、雰囲気や空気と似ているし、海や川、深い山々などを前にしている時には、自然の意志みたいなものも感じる。言葉になりきらない何か。そういうはっきりと捕まえられない何かは川みたいな流れを作って意識の奥底でいろんなところとつながっていて、恐らくは世界中に広がるネットワークとなり、さらにシンクロニシティ(共時性)を起こす引き金になったりしていたら面白いのにと思っていたら、「アルケミスト」に似たようなことが書いてあったから、世の中には同じようなことを感じている人種がいるんだと変に感心した。

私がせっせとファンタジーを書くのは、やはりそのネットワークの存在を書き表したいからだろうなぁ。もちろんなかなか上手く書ききれずに玉砕してばかりだけど。
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