心のつぶやきを吐き出す裏ブログです。
ブログのプロフィール
〈管理人名〉 O-bake
〈趣味〉 創作とクラシック音楽
〈主な内容〉
創作に関する覚書
ごくたまに掌編を掲載
テリトリーは童話からYAまで
〈お願い〉
時々、言葉が足りないために意味不明な文章があったり、攻撃的な文章がありますが、ここは毒吐き場なので、どうぞ見過ごしてやってください。
〈連絡先〉
管理人へのメッセージは、こちらのフォームからどうぞ
〈本家ブログ〉
びおら弾きの微妙にズレた日々
(一方通行です)
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ここでは珍しく音楽の話を。というか、まったくの忘備録。
その昔、人の少ないビオラパートで一人や二人で弾いていた頃、「あなたの音はよく聞こえるねぇ」と驚かれたことがある。自分のビオラは明るくてはっきりした音が出るので、楽器の特性かなと当時は思っていた。が、その後いろんなオケをめぐるうちに、ステルス機能を身につけ、ヤバい箇所ではすっと消えるスキルも身につけた。また、めんどくさいパッセージでは、最初と最後の音さえ合っていればそれらしく聞こえることも知った。そのうち、自分の音はその他大勢の中にまぎれて判別がつかなくなっているだろう、くらいに思うようになった。
しかし、「ここは強く押し出す」「この音は重みをつけて」など、明確に意志を持って出した音は、どんなに集団に埋もれているように見えようが、人に(具体的には指揮者に)はっきりと届くのだということを知らしめる出来事とたまに遭遇する。そういうとき、音には意志が宿っている。少なくとも、自分は意志を乗せた音を発信することができ、そういう音は音量にかかわらず人の耳に届くのだ。
合奏の時、パートの人数が少なければ少ないほど一人あたりの存在感が強くないと、他パートに押しつぶされてしまって合奏にならない。だから、かつて弱小ビオラパートにいたころは、もう無意識のうちに「俺の歌を聞け」モードになっていたと思う。で、その状態は実にストレスフリーだった。
よく考えて見れば、音楽というのは表現形態の一種だ。デフォルトモードが「俺の歌を聞け」で当たり前なのか。最近、そのことを忘れていた。音楽だけでなく、文章表現においても「俺の歌を聞け」モードが結局は強いということも。
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