心のつぶやきを吐き出す裏ブログです。
ブログのプロフィール
〈管理人名〉 O-bake
〈趣味〉 創作とクラシック音楽
〈主な内容〉
創作に関する覚書
ごくたまに掌編を掲載
テリトリーは童話からYAまで
〈お願い〉
時々、言葉が足りないために意味不明な文章があったり、攻撃的な文章がありますが、ここは毒吐き場なので、どうぞ見過ごしてやってください。
〈連絡先〉
管理人へのメッセージは、こちらのフォームからどうぞ
〈本家ブログ〉
びおら弾きの微妙にズレた日々
(一方通行です)
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本日の記事は完全に毒吐き。だいぶ疲れてます。
各地で災害が起きるたびに、ああ大変だなと思いを馳せるのだが、それを部外者が言葉にするのはずっと遠慮してきた。というのも、被害にあった当事者の人たちはそれこそ自分の生活を立て直すのにせいいっぱいだろうし、遠くにいる人間が思いもつかないような厳しい現実に向き合っているわけだし、そこへ、キーボードを叩けば簡単につくれるようなお見舞いの言葉をもらっても嬉しいわけないだろうと想像するからだ。
その一方で、気遣いの言葉が嬉しかった(たとえネット上の通りすがりの誰かがつぶやいた言葉だとしても)、という声もある。だから、言いたい人は言えばいいんじゃない? それで本人の気が済むなら、と思っていつもは流し読みをしている。
だけど、先日はなんだか違った。地震の被害にあった人たちに向けて、ある児童書作家が癒やしの画像と言葉をツイートで流していたのだが、目に入ったとたん強烈な「コレ違う」感に襲われた。後から読みなおすと、特に何がひっかかるわけではないのに、その時はなぜか「児童書作家だからこそ、つらい出来事に遭遇した人を慰めなくては」という義務感あるいは「慰めている自分偉い」という自己満足感を強烈に感じてしまったのだ。
なぜなら、現在進行系で現実と戦っている人の心には、そんな遠くから発せられたぬるい言葉は届かないことを知っているから。実際に届くのはたぶんきっと、同じ大変さを分かち合える人の言葉。
ここまで書いてきて、ふっとマザー・テレサの言葉を思い出した。昔英語の教材で読んだ話だから、細部はうろ覚えだけども、シェアに関するエピソードだった。
「あなたが、貧しい人と(例えば)砂糖を分かち合いたいなら、余っている砂糖を貧しい人に差し出すのは違う。あなたが我慢して食べなかった分の砂糖を差し出しなさい。それが本当に『分かち合う』ということです」
という内容だった。砂糖をぬくという体験をしてはじめて分かち合いになるという、このエピソードを読んだ時は本当に目からウロコだった。
辛い思いをしている人に慰めの言葉をかけるのは割と簡単だ。ネットにつながっているのなら、キーボードを叩く、あるいは指を滑らせるだけでいい。でも、それは余っている砂糖を「恵む」行為とさして変わらない。声をかける側がその痛みを知っていてようやく辛さの分かち合いができるのだと思う。
だから、いつもは読み流している言葉に対して強い違和感を感じたというのは、それだけ自分の心が敏感になっていた証拠でもあるのだろうなあ。
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