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心のつぶやきを吐き出す裏ブログです。
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〈管理人名〉 O-bake

〈趣味〉 創作とクラシック音楽

〈主な内容〉
創作に関する覚書
ごくたまに掌編を掲載
テリトリーは童話からYAまで

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時々、言葉が足りないために意味不明な文章があったり、攻撃的な文章がありますが、ここは毒吐き場なので、どうぞ見過ごしてやってください。

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夏目漱石には、高校生のころはまった。小説の中では「それから」と「門」が好きだったが、一番好きだったのは「夢十夜」と「硝子戸の中」だった。後者はあきらかに随筆で、前者は随想とも幻想短編ともつかない不思議な、でも心の深いところにひびく作品だった。

先日、茂木健一郎氏がフェイスブックで漱石の「硝子戸の中」の一編を、温かい感想とともに紹介していた。それがきっかけだったと思う。その後ほどなくしてkindleで漱石の作品がほぼ全部、しかも本来は全集を開かなければ見つからない講演記録までが無料で入手できると知って、手当たり次第にiPhoneに放り込んだ。


どうしてだろう、漱石先生の文章にはことごとく魂を引っ張って行かれるような力がある。年月を重ねるうちに自分の読解力や感性が多少なりとも進化/深化したことはあるだろうけど、とにかく「夢十夜」の第一夜を読んだ時点で涙が止まらなくなった。いきなり水晶の針を心の一番柔らかい部分に突き刺されたような衝撃があったのだ。何がどうしてそうなったのか自分でもわからない。

わからないので、漱石先生の講義や講演の記録を読んでみることにした。とりあえずこの三編、「文芸の哲学的基礎(明治44年・東京美術学校にて講演)」「文芸と道徳(明治44年8月大阪にて講演)」「文芸とヒロイック(明治43年・東京朝日新聞文芸欄)」。
しかし読んでみたからといって、先程の謎が解けるわけではなく、それでも大きな収穫はあった。

「文芸の哲学的基礎」は講演を加筆修正したもので、かなり長い。しかし、西洋と仏教の思想を融合したと思われる漱石の哲学観が端的に現れていて読み応えがある。あとの2つで述べられている内容は、ほとんどこの「文芸の哲学的基礎」で語られていることと重複する。また、当時西欧で流行し、日本にもその影響が流れてきていたロマン主義と自然主義の特長にも言及し、軽く分析を行なっていてとても興味深い。

漱石先生は文芸作品に対して「美」「真(実)」「知」「意思」の4つに分類される「理想」を求めていた。全部そろっている必要はなく、少なくともどれか一つが体現できていればよいという。逆に「理想」を持たぬもの、あるいはひとつの理想を表していてもそのことによって他の理想を貶めているものは下品だとして退ける。

そうか、品格なんだと思った。人間のリアルな有様を美醜に関係なく描き出すこと自体は悪くない。むしろそれは時代の流れでもあったのだが、そこには品格がなくてはならないというわけだ。品格というのは善の概念や道徳とつながる。人の醜態を描いたとしても、そこに「善きもの」に通じる何かがあればそれは文芸作品として存在価値があるし、その何かが無ければ存在価値もない。

漱石の時代から100年ちょっとたった現在の視点で見ると、この漱石先生の価値観は古臭いだろうか。実際、現代における文芸作品の品格は、作品価値の中の最重要事項ではなく、単なる1側面にまで後退してしまった感がある。

ただし、児童文学の世界だけは違う。どれだけハードな状況を描こうが、その底には善なるもの、言い換えれば希望につながる何かが流れていなくてはいけない。自分が「書くなら児童文学」と心の中に決めていたのには、こういう大きな理由があったのだと今更ながら気がついた次第。
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