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心のつぶやきを吐き出す裏ブログです。
ブログのプロフィール
〈管理人名〉 O-bake

〈趣味〉 創作とクラシック音楽

〈主な内容〉
創作に関する覚書
ごくたまに掌編を掲載
テリトリーは童話からYAまで

〈お願い〉
時々、言葉が足りないために意味不明な文章があったり、攻撃的な文章がありますが、ここは毒吐き場なので、どうぞ見過ごしてやってください。

〈連絡先〉
管理人へのメッセージは、こちらのフォームからどうぞ

〈本家ブログ〉
びおら弾きの微妙にズレた日々
(一方通行です)
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家全体の掃除に先立って、マイ本棚の片付けにとりかかる。1年の間にためこんだ各種お知らせプリントやリーフレット類の処分だ。

棚を漁っていると、懐かしい原稿が出てきた。自分のだけでなく、合評用にと受け取った人様の原稿まで。同人誌掲載までに、何度か書き直すので、同じ作品でもいくつものバージョンがある。無事に完成へ至った作品については、古い稿を処分させてもらう。中には初稿しかなくて、同人誌に載せずじまいになっている作品もある。そういったものは……なぜか捨てられず、保存用の茶封筒の中へ。

色んな人の原稿を読み返しながら、ちょっと感慨にふける。面白い作品を書いていたけど、会を脱退することになった人、最初は個人的に作品を読みあっていただけの付き合いだったのに、いつの間にか同じ同人誌で活動する仲間になってる人。人生いろいろあるものだ。

そして、思わぬお宝発見。
超有名な児童文学作家の講演を記録したメモ用紙。かれこれ5年ぐらい前になるだろうか。今読み返してみても、すごく役に立つ。むしろ耳に痛いことまで書いてある。「作品がつまらない理由は」とか(汗)、作家になるには毎日一定量の文章を書くこと、とか。ちなみにこの作家氏は、毎日原稿用紙10枚をノルマにしているそうだ。だから、あの膨大な作品量なんだな……。
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地元のケーブルTVの番組内で、昔、自分が同人誌に載せた作品を読み聞かせしてもらえることになった。

ケーブル局オリジナルの情報番組があって、その中に5分ほどのお話読み聞かせコーナーがある。そこで扱う話に、地元発の物語を取り上げたいということで、うちの同人誌に白羽の矢がたったようだ。

局の担当者さんが過去の同人誌すべてに目を通し、使えそうな短編を選び出して、イラストをつけてくれる。画面的には、アナウンサーが物語を読み上げる横にイラストが添えられる形。

春にこのコーナーが始まり、これまで3篇の物語を取り上げてもらった。秋から続きということで、またまた3篇を取り上げてもらい、そのなかに拙作が入っていたわけだ。

最初に連絡を受けたときは「ふーん、そうか、良かったな」ぐらいにしか思えなかったが、先日電話で話の区切り方の打ち合わせ(1章あたりの分量が多いので、放送時間に合わせて適当な長さで区切る必要があり、その場所については作者が指示する)をしていたら、急に現実味を帯びてきた。

放映日は、見逃さないよう、テレビの前で番をしていそうだな。

それでどんな話が取り上げられるかって? オバケ屋敷に置いてあったくまシリーズの1作目ですよ。
「水の精霊 第三部」を読み終えた。個人的にツボに来る描写が山ほどあって、参った参った。既知の場所がいくつも登場するというのは表のブログでも書いたけれど、それ以外にもいろいろと。
中でも、人間の無意識の集合体とでもいうべき「海」の登場には驚いた。人の魂の種のようなものが生まれて帰っていく場所として海を設定しているなんて!
同じようなことを思いつく人がほかにも結構いると見た。人間は、もとをたどれば、海から発生しているから、海から来て海に帰るという発想が自然と生まれるのかもしれないな。特に日本は海に囲まれているし。

あちこちで色んな海を見たけど、自分的に一番印象深いのは、月夜の砂丘の向こうで青白く輝く海。この海に遭遇していなかったら、「ひびきの森~」の物語は、全然違うものになっていたのではないかと思う。
今朝、目覚まし代わりのラジオから懐かしい歌声が聞こえてきた。小田さんだった。曲は「ラブストーリーは突然に」

そうだ、今日は小田さんの誕生日ではないか! しかも60回目の! 
赤いちゃんちゃんこを着る小田さん……(ありえない)

還暦を迎えてなお、現役。
もうじき終わっちゃうけど、N○Kの朝ドラの主題歌歌ってるし。

すごいなぁ。この人は一生走りつづける気がする。焦らず手を抜かず、あくまでもマイペースで。

思春期に大量に小田さんの曲を聴いたせいか、今でも書き言葉のリズムにその影響が残っている。

25年前は友人と大騒ぎしたこの日も、今はひっそりと「おめでとうございます」

ってわけではないが、涼しくなったので、まともにびおらを練習する気になった。これまでは楽器を出してもあまりに暑くてやる気が出ず、「とりあえず音を出して終わり」だったのだ。

第九を練習して、自分の音に耳を傾ける余裕が出てきた。何度も弾いた曲なので、「ここはこういう音質でなくては」というのが見えている分、やりやすい。
ハイドンの「ひばり」も手をつけた。これまた、CDでよく聴いているので「こんな音色で弾きたい」というねらいを定めやすく、練習しやすい。よい音の出るポジションを考えたり、弓の使い方を考えたりして、少しでも理想に近づくように何度でも同じ場所を弾く。

こんな風に練習していると、以前に書いた物語を懐かしく思い出す。弦楽器弾きが登場する話。
上達のスピードに差はあるとしても、最初から上手い人はいない。こつこつと練習を重ねて、あるいはたくさん弾き込んで、ようやく楽器を自分の身体のようにあやつれるようになる。少しずつ上手くなる過程が面白いんだよな。
もっとも、本当の問題はそこから先で、どんな音を目指すかで音楽の質が決まってしまうのだけど。

物語を書くときも似てるんだよね。あるべき形が見えてさえいれば、それに近づけるように何度でも書き直せる。問題は何を目指すか、だ。

たくさん読んでたくさん書かなくちゃ。
夏休みが終わった。
心配してた割には、意外とあっさり帰ってこれたようだ。
つまるところ、一人の静かな時間があれば(30分とかではなく3時間とか)大丈夫だったらしい。

それで、昨日(始業式)の成果は、読書1冊(レビュー記事を書くのも含む)にびおらの練習1時間。一日に両方できるなんて、夏休みの間は考えられなかった。
でも、ふだんはこれが当たり前で、時にはもの書きので一日が終わってしまうこともある。そんな時には外出の時間が極端に減る。外出しても異世界を漂っている気分。

夏休みとそれ以前とでは、まるで別世界にいるみたいだった。例えば、肉体労働の世界と頭脳労働の世界、みたいな。
面白いのは、同じ現象に対して、前者の立場と後者の立場では、まるで見え方が違うということ。

世界っていうのは、実はパイの皮なんじゃないかと思った。人の数だけ価値観という名の薄皮が重なっていて、きっと、分厚い層を成しているのだ。違う薄皮へと飛ぶには、想像力というバネが要る。
暑いことに変わりはないが、日の光や風の温度は確実に変わった。
変わらないのは自分の脳みそ。まだ夏休みモード。

この夏休みはどうして? と思うほど用事が立てこんで、あちこち出かけてばかり。自分の世界にこもるヒマがない。そういう状態が何週間も続くとどうなるか。
いざひとりの時間ができても、自分の世界に復帰できなくなっていることに気づいた。お盆を過ぎたあたりから、ほとんど迷子の状態。

それで、もの書きが一行も進まないし、読む本もノンフィクション系ばかり。たとえ人様の書いた話であっても物語の世界に浸れないのが不思議。

2学期の開始と同時に帰り道は見つけ出せるのか。見つからないと困るんだけど。

日常からほんのわずか離れて旅行をした。夜がふけ、家族が寝入ったあと、海辺で星空を見上げた。

こういう時、多少なりとも星座がわかるというのは便利だ。名前のわからない星々を漫然と見上げるより、ずっと夜空に親近感が持てる。

この晩の夜空の前菜は、海の上の北斗七星、それと対になるカシオペア座。両者の真ん中に気弱に光る北極星。
メインディッシュは、織姫、彦星、そして白鳥座のデネブが作り出す「夏の大三角形」及び、そこを流れる天の川。
あいにく、周囲の光がまぶしくて、さすがにミルクみたいな川は見えなかったが、砂粒のような星が集まっているのはよくわかった。とにかく、そこがこの銀河の中心だ。

見える見えないにかかわらず、いつもこんなにも多くの星の下にいる。それを実感するだけで幸せな気分になった。これだけのことでハッピーになれるんだから、自分はずい分お気楽な野郎だと思う。しかも、見つめていると、音楽を聴いている時に感じるのと同じ種類の、特別にうっとりとした気分に襲われるのだ。

その一方で、書きかけの物語のことがしきりと思い出されてならなかった。いや、いちおう、話の最後までたどりついたのだから「書きかけ」ではないかもしれない。でも、自分の中ではまだ終わっていない。続きがあるとかないとかではなく、本当に書き表したかったことが書けてないという意味で「書きかけ」だ。

その物語のシーンがあれこれ胸の中をよぎる。どうやったら完成に近づけるのか。どうやったら、触れられず、目にも見えない、でも確かに存在する事物を具体的に示せるのか。何とかして完成させたいけれど、道のりは遠い。

そう思っていた時に、すーっと青白く尾を引く流れ星が見えたのだった。

この間、「鉄コン筋クリート」というアニメを見た。
そこに登場する二人の少年の名がクロとシロ。大人を嫌い、切れ者でケンカの腕が立ち、血を見ることも厭わないクロと、天真爛漫で人を疑うことを知らないシロ。二人は分かちがたい絆で結びついている。まるで一心同体。

このアニメの感想を見ると、「シロとクロは誰の心の中にもいる」という言葉が目につく。名前のとおり、シロは純粋さ、クロは力を象徴しているのだから。

そんなことをつらつらと考えていて、そういえば自分のブログも似たようなもんだと気がついた。なんでわざわざ裏と表に分けたくなったのだろうと自分でも不思議に思うことはあったのだ。
裏はいくら隠してあるとはいえ、人目につくことに変わりはない。表は公開してあるが、アクセス数を増やすことに関心はない。
どうやら、やじろべえみたいに竿の両端に重りをつけてバランスを取りたいと、そういうことなんだろう。

ちなみに、シロとクロが別れ別れになったのち、先に壊れたのはクロのほうだった。シロは心の目で、ずっとクロの心を見ていたのに、クロはそれに気づかず、どんどん暴走して自滅していった。そして、本当に最後、崖っぷちに立たされた時にやっとシロのことに気づく。そして二人は再びいっしょになる。

自分の場合、裏が表を支えているんだろうなと思う。裏でブツブツ吐き出しつつ、色んなことを考えて、それが表の記事を書くときのパワーになっていたりするわけだ。まさに裏方ですな。
ある日、ラジオから流れてくる歌声に興味を引かれた。「これはいい!」
次の日、本屋のレンタルCDコーナーで、「このジャケット素敵!」
どっちも椎名林檎だった。(別名、東京事変)

このひと、天才です。波長はバッチリ。
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