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心のつぶやきを吐き出す裏ブログです。
ブログのプロフィール
〈管理人名〉 O-bake

〈趣味〉 創作とクラシック音楽

〈主な内容〉
創作に関する覚書
ごくたまに掌編を掲載
テリトリーは童話からYAまで

〈お願い〉
時々、言葉が足りないために意味不明な文章があったり、攻撃的な文章がありますが、ここは毒吐き場なので、どうぞ見過ごしてやってください。

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〈本家ブログ〉
びおら弾きの微妙にズレた日々
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前から気になっていた、パウロ・コエーリョの「アルケミスト」を読んだ。ファンタジーの基本をこれでもかというぐらいに押さえた良い寓話だった。
また、世に出たのが1988年ということを考えると、今日本で流行っている「信じれば夢を叶う」の元祖かな、という気がしないでもない。もちろん信じると言っても、この本では、それがいかに難しいかが描かれているわけで。誰にでも可能だけど、誰もが成功するわけではない。

以上は前振り。さて、この物語の中には、人種の違いはおろか、人と動物、植物、砂漠の砂にまで通じる特別な言葉が登場する。それが「大いなる言葉」。具体的に言葉を話すのではなく、心で感じ取る種類の言葉らしい。
この言葉を見たとき、「ああ、音楽にも同じものが流れているな」と思った。ときどき、音楽の流れの中に作曲者の意志の流れみたいなものを感じることがあって、それはリアルで誰かと話している時に感じる、雰囲気や空気と似ているし、海や川、深い山々などを前にしている時には、自然の意志みたいなものも感じる。言葉になりきらない何か。そういうはっきりと捕まえられない何かは川みたいな流れを作って意識の奥底でいろんなところとつながっていて、恐らくは世界中に広がるネットワークとなり、さらにシンクロニシティ(共時性)を起こす引き金になったりしていたら面白いのにと思っていたら、「アルケミスト」に似たようなことが書いてあったから、世の中には同じようなことを感じている人種がいるんだと変に感心した。

私がせっせとファンタジーを書くのは、やはりそのネットワークの存在を書き表したいからだろうなぁ。もちろんなかなか上手く書ききれずに玉砕してばかりだけど。
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本当は元旦に書きたかったのだけど、現世の用事が多すぎて手が回らなかった。

ここでは、主に物書き方面についてのまとめや予定などを書き出してみよう。
今日は、同人誌10号発刊の打ち上げ食事会に参加して、「おめでとうございます」だの「これまでお世話になりました」だの、いろいろ挨拶してきた。
同人誌の人たちはみな優しいので、「創作に打ち込むための退会ならしかたないね」とか「いつでも戻っておいで」と声を掛けてくれる。退会した理由の半分は、「このまま居続けたら自分のためにならない」という理由なのでかなり心苦しいが、逆にこれだけ良くしてもらうと、途中でへたれて物書きをさぼったり、筆を折るわけにはいかないなと思わざるを得ない。

とにかく、きれいに退会できてすっかり心が軽くなった。

この一週間というもの、今日の打ち上げのほかに演奏会の本番や、懐かしい人たちとの再会など、自分的に大きなイベントが立て続けにあったので、頭の中は飽和状態。大きなイベントのほかにも小さなサプライズがいくつもあって(あ、いまだ解決してない排水管づまりも結構キてる。これは明日業者が来て直してもらえる予定)、今大きな変化の節目にいるのかな、という感じ。
自分の限界を知ったり、原点を確認したり、古巣を飛び出したり。多少混乱はしているかもしれないけれど、今の気持ちはすっきりしている。

家に帰って、トイレでなんとなく一連の出来事を思い返していると、ある単語がふっと頭に浮かんだ。
グラウンド・ゼロ。「爆心地」という意味を持つと同時に、9.11のNYテロ事件で消えてしまった世界貿易センターの跡地も指し、再出発という意味さえ込められて使われている言葉。
今、自分は自分で作ったグラウンド・ゼロの上に立っているんだと感じた。
これまで作り上げてきたしがらみや価値観を一度更地に戻して、もう一度見つけ直す作業が始まったところ。

だとしたら、今は心を研ぎ澄ませ、耳も目もしっかり開いて道を見つけるとき。
ふらふらしていると言えば、最近、身辺で印象的な出来事が多すぎて、気持ち的に消化しきれないで居る。

以下はごく個人的なことが書いてある。自分のための覚え書きメモ。
今日は大学オケの先輩後輩と会って、お互い、色んなことを懐かしみながら軽くおしゃべりして美味しい珈琲をいただいて帰ってきたのだけど。

帰りの電車の中、睡眠不足の頭でぼんやりしつつ、ふと、自分は今、家に帰ろうとしているのか家からどこかへ出かけようとしているのかわからなくなった。
その電車というのが、かつて(大学を出たてのころ)は職場へ向かう通勤電車であり、結婚して新居に移ってからは、帰宅するための電車になったからだ。
今日みたいに古い知り合いと会ったりして気持ちが昔に引き戻されると、ふっと、今でも名古屋に住んでいるような錯覚を起こしてしまう。かといって名古屋の実家に行くと、そこはとっくに自分の居場所ではなくなっているというわけのわからなさ。
でも、自分の魂の一部は、いまだに名古屋市内のあの辺とかあの辺(主に通学で通った場所)をふらふらしてるんじゃないかと思う。

結局、今住んでいる家も、生まれ育った家も、仮の宿なんだろうなぁ。
失ったものたちの重みにひきずられないようにするためです。

季節のせいだか何だか知らないけれど、少し前に夢中になって書いて、結局ボツになってしまった物語(複数)のことをしきりと思い出す。さまざまなキャラクター達が頭の中を行き来していて、ふとした瞬間に感傷にひたってしまう。「今ごろ彼はどうしてるんだろう」「もっといい話運びはできなかったものか」「あの世界に戻ってみたいな」などなど。
音楽のネタはたいてい表のブログに書くのだけど、今考えていることは表に出せるほどまとまっていないので、まずはここでつぶやいてみる。

ポップスをやっていると、よく8ビートとか16ビートとかいって、1小節の間に何回音を打つかでリズムを分類したりする。クラシックでも、一つの音を4つに分けたり8つに分けたりして刻むことがよくある。
その効果は音の密度を濃くしたり、リズム感を出したり、ざわざわ感をだしたりと、いろいろ。
一年以上前から、同人誌をやめたいとつぶやき、この春には休会までこぎつけていたが、結局は復活なしで、やめることに決めた。会の代表さんに話をしたら、すんなり認めてくれたので、私がもう同人誌の空気となじまなくなってることはわかっていたのだろう。

私にとっては、同人誌を発行することが作品書きのゴールではないから。同人誌に作品を載せる作業は、正直言って踏み台だ。そこからさらに上を目指して書かなくちゃいけない。そう決めたときから退会への流れは始まっていたのだと思う。

てことで、本当に一人で奮闘しなくてはいけなくなった。
ま、人はいずれ親離れしなくちゃいけないわけだし、いつまでも同じところに留まっているのは苦手なので仕方ないか。
数日前、ついったーをやっていて面白いと思ったことがある。
「最近の若者が苦しんでいる原因のひとつに、〈夢〉を実現しなくてはいけないというプレッシャーがある」というコメントがあったので、それに反応して「本屋に行くと〈夢を叶える〉関連の本が大量にある」というつぶやきを残したら、これに違うフォロワーさんが反応して、今の世の中で夢の実現にうるさいのは「会社の成果主義の私生活版」かもしれないというコメントを頂いた。このコメントは目から鱗、クリティカルヒットだった。

ああそうか、今はそんな世の中なんだなぁと、興味深く実感する。
物質主義に反抗する動きは私が子どものころ(高度経済成長期直後)からあったわけで、次第に物質的じゃないもの(人の心に関連するものや世界)がもてはやされ、重視されるようになる。するとそこにマーケットができたとばかり、心理学関連の本や精神論、人生に対する考え方などが商品となって売り買いされるようになる。本来、物質的じゃなかったものが、商業ベースに乗ることで物質化してしまった。
今じゃ「夢」まで商品だ。いや、その前段階の「夢を持つ」方法までお金を払って手に入れる時代だ。

夢は自発的に湧いてくるものだし、必ずしも明確に夢を描いて実現しなくちゃいけないわけでもない。
なのに強制されたらつらいよなぁ。誰でもいい人生を送りたいとは思っているし、夢を抱いた以上は叶えたいけど、「それならこの通りにしなさい」とマニュアルをもらうのもなんだかなぁと思うのだった。

もうひとつ(続く)、
アニメ監督の今敏氏が亡くなった。昨日のことだ。
ツイッターのTLは今日の明け方からこのニュースで騒然としていた。なにしろ、今監督は一昨日までごく普通にツイッターでつぶやいていたのだから。
(もちろん今になって再読すると、ああ、あのつぶやきはそういう意味だったのか、と悲しく納得することが多いのだが)
ずっと伏せられていたのだが、今監督は今年の5月に末期ガンを宣告され、自宅で最期を迎えたいと半ば強引に病院を出てきて自宅療養に切り替えていたという。7月下旬に一度ピンチを迎えたが、その時は奇跡的に乗り切って、自宅に戻ってからツイッターを開始したようだ。たぶん、その頃に遺言をしたためたのだろう。

今日の夕方になって公式ブログに「さようなら」というエントリーで今氏の遺言が掲載された。あらかじめそういう段取りが組んであったようだ。
遺言の内容は、病の経緯とそれを伏せて置いた理由のほか、まわりの人たちへの感謝と、己の人生に対する満足感でいっぱいだった。決して長くはないけれど、完全燃焼の人生だったことがうかがわれる。
この遺言は、遺言であるにもかかわらず、人生に対する希望が溢れそうになっている。きっと、生きる勇気をもらった人が大勢いるに違いない。

自らの死でさえイベントとしてプロデュースできてしまう今監督の職人意識はすごい。あるいは、そうでもしなければ、47歳の働き盛りに人生に格好良く別れを告げるなんてできなかったのかもしれない。
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