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心のつぶやきを吐き出す裏ブログです。
ブログのプロフィール
〈管理人名〉 O-bake

〈趣味〉 創作とクラシック音楽

〈主な内容〉
創作に関する覚書
ごくたまに掌編を掲載
テリトリーは童話からYAまで

〈お願い〉
時々、言葉が足りないために意味不明な文章があったり、攻撃的な文章がありますが、ここは毒吐き場なので、どうぞ見過ごしてやってください。

〈連絡先〉
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〈本家ブログ〉
びおら弾きの微妙にズレた日々
(一方通行です)
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本日の記事は完全に毒吐き。だいぶ疲れてます。
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大きな本番がひとつ終わった。一年以上かけて練習してきた大曲の演奏会だ。
とても大勢の人たちが動き、協力しあって成功した舞台だった。聴衆の中にはその道のプロがたくさんいたし、ありがたいことに評価は高かった。演奏会の後には、FBで演奏会の感想をあげる人がたくさんいたし、そういう人たちは一様に、貴重で素晴らしい体験をしたことと、感謝の気持ちを漏れなく書いていた。読んでいるこちらまでほっこりして、その演奏会に参加したかったなあと思うくらい。

いやいやいや、自分も確かにその演奏会に参加していたのに、なんだか違う世界の出来事を見ているみたいに温度差がある。いったい何がどうした?

本番中は、少しでもきちんと弾けるところを増やそう、目立つ場所で音を外さないよう、リズムを乱さないように気を使ってずっとピリピリしていたのだから、楽しんだり感慨に浸ったりする余裕はいっさいなくて、目頭が熱くなるなんてとてもとても。むしろ練習中のほうが楽しい時間が多かった。

それ以前に、感慨に浸れるほど演奏会の運営システムに関わっていなかったというのも大きい。できるだけ多くの練習日に参加できるように、仕事の日程をやりくりするだけで精一杯だったから、お手伝いする余裕もなく、極端な言い方かもしれないが、半分「外の人」みたいな気持ちだった。

そんなこんなで、どうも不完全燃焼を起こしたみたいにスッキリしない。まさか表のブログにこのような率直すぎる気持ちを書くのもどうかと思うので、とりあえず裏に書いてみた。




さる売れっ子の児童文学作家の最新作を読みまして。
小学生中学年以上に向けて書かれた魔法少女モノで、主人公の心の動きや生活背景などとても丁寧に書き込まれた良い作品だと思った。魔法バトルのシーンがとても物足りなかったが、他作品と比較して思うに、バトルシーンはあえて削られた感じがする。この物語で主眼に置かれているのは、物理的なバトルではなく、心理的な葛藤だと思われるので。
楽しみにしていた作家さんの新刊が届いたので、喜び勇んでページをめくり始めたところ、ショボーン(´・ω・`)という感じ。こうなってしまった場合、言うに言えないもやっとした気持ちをどうやって表現したものでしょうかね。
長らく人生をやっていると、様々な友人と関わりを持つ。
ア◯◯o◯やってたりとか、特定の宗教に帰依していたりとか。あるいは宗教と言えないまでも思想を同じくする集団に属している人とか。
友人がどんな思想に共鳴していようが、その思想が常識の範囲内であり、普通に人付き合いができるなら問題はない。ただ、彼らが何かいいことを言った時に、それが何らかの教義のコピーであったりすると、とたんにがっかりする。本人はコピーしているつもりはなくても、教義が完全に内在化されているだけ、という場合もあって、そういうことに気がつくと、残念感が半端ない。

人生には面倒臭いことがたくさん転がっていて、それらをやっつけながらを生き抜く時、ありがたいHOW-TOがそこに転がっていれば、つい手に取りたくなるだろう。頼りたくもなるだろう。一時的に頼るのは十分アリだとおもうが、完全に寄りかかってしまうと思考停止を引き起こす。「今の自分の考えは本当に正しいんだろうか」と疑い迷うことがなくなってしまうと、思考は生命力を失い、干からびた形式的なものになってしまう。

などと考えてしまう自分は「自分の頭で考えろ」信者なのかもしれないな。同類としては哲学者がいる。たぶん。





ここしばらく、公募用作品書き&読書&楽器の練習に加え、お遊びの予定がたびたび入って、どう考えても一日30時間ないとまわせないような日々を送っている。
楽しいというか、充実していることはわかっているのだが、疲れる。そのしわ寄せがどこに来るかというと、今のところ楽器。はい、必要最低限しか練習してません。

自分が弾けなくても他の人がカバーしてくれるからまあいいや、とか、レベルの高い管楽器の響きにうっとりしながら楽しく弾ければいいや、とか、いわゆる「悪魔のささやき」の類が頻繁に頭の中をぐるぐるまわる。
音楽の演奏会は、潔いほどに後に残らない芸術で、いくら「あれはいい演奏だった」という評判が聞けても、それは個人の主観による判断であり、また一過性のものなので時がすぎて記憶が薄くなれば消えてしまう。ひどい演奏にしても同じこと。演奏会の成果は失敗しても成功しても川の流れのように過ぎ去ってゆく。
だから、あまり頑張りすぎてもな~と、つい思ってしまう。時間がたっぶりあるときなら好きなだけ練習すればいいのだが、ほかにもやりたいことがありすぎる。

などとつらつら考えていたら、サリンジャーが書いた「フラニーとゾーイ」という短篇集の中に登場する「太ったおばさん」のことが頭をよぎった。
フラニーとゾーイーには敬愛する兄シーモアがいて、シーモアはこれからラジオ出演に行くという幼い弟妹たちに告げた。「太ったおばさんのために靴を磨きなさい」と。ラジオなのだから出演者がどんな身なりをしていてもリスナーにはわからないはずなのに、シーモアはそう教えた。
「太ったおばさん」というのは、病気で動けずひがな一日籐椅子にすわって大音量でラジオを聞いているような人、生活の楽しみがラジオしかないような人のことで、実際はおじいさんでも若者でもよく、つまるところラジオ出演者がその人のためにこそきちんと演じようと思える人なのだと、フラニーもゾーイも理解している。

「太ったおばさん」は架空の人だ。特定の誰かではない代わりに、どこにでもいて、時に実在の人の姿を借りて現れる。このことを私自身体験した。→(当時のブログ。最後のほうにちらりと書いてあります)

昔のピアノ発表会の時にはひとりだった「太ったおばさん」が、今度の演奏会の会場には大勢いるであろうことを肝に銘じなくてはいけない。

昨年末に、フェイスブックで新しいタイプの人と「友だち」になった。そうしたら芋づる式に似たような人たちの投稿や引用を読むようになって、結果、女性起業家とか啓発セミナーの情報とかが大量に入ってくるようになった。
先月開催された女性セミナーに出席したところ、懐かしい友人に再会。数年前まで、同人誌活動をいっしょにやっていた友人で、今はふたりとも同人誌は抜けて、それぞれの生活で忙しい。

まあとにかく、ここで会ったのも何かの縁ということで、あらためてお茶でも、と友人宅に招かれた。
といっても大した悪さはしてません。

先日、読書会を図書館で開き、その帰りに次回分の会議室を予約しているときだった。同人誌のメンバーと鉢合わせしてびっくり。彼らは図書館の事務室に出来たてほやほやの新刊を預けに来た所だった。
あいさつをして「どうして図書館に? もしかして図書ボランティアやってる?」と聞かれたけれど、そのへんは適当に言葉を濁す。なんとなく、だけども、自分が児童書の読書会を始めたことを彼女たちに告げるのは好ましくないように感じたから。そもそも内緒でMさんを読書会に引きずり込んでるし。
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