心のつぶやきを吐き出す裏ブログです。
ブログのプロフィール
〈管理人名〉 O-bake
〈趣味〉 創作とクラシック音楽
〈主な内容〉
創作に関する覚書
ごくたまに掌編を掲載
テリトリーは童話からYAまで
〈お願い〉
時々、言葉が足りないために意味不明な文章があったり、攻撃的な文章がありますが、ここは毒吐き場なので、どうぞ見過ごしてやってください。
〈連絡先〉
管理人へのメッセージは、こちらのフォームからどうぞ
〈本家ブログ〉
びおら弾きの微妙にズレた日々
(一方通行です)
〈趣味〉 創作とクラシック音楽
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この一週間のうちに訃報が2件。ひとつは、大学時代にお世話になったことのある先生。学生オケの顧問を長く務めていらした先生なので、フェイスブックのオケOBグループ内で、あっという間に情報は広がった。中にはその先生に仲人をしていただいたという大先輩や、このお正月まで年賀状のやりとりをしていたという先輩も。私は意味論の講義でお世話に。とても深い知性をお持ちの先生だったと覚えている。
葬儀は教会で執り行われたので、キリスト教に帰依されていたのだと知った。そう言えば私のゼミの先生もカトリックの信者だったが、亡くなる時までゼミ生の誰もまったく知らずにいた。何を信仰しているのか、という問題はごく個人的なことがらであって、いちいちカミングアウトすることではないのかもしれない。
もう一件の訃報は、私の祖母。母の母にあたる。長らく養護施設に入っていて、私はほとんど会いに行かなかったけれど、時々見舞いに行っていた母によれば、祖母は身体のあちこちが弱くなっていたものの、別段ボケがくるわけでもなく、比較的穏やかに時を過ごしてたという。亡くなった原因もほぼ老衰と言っていいぐらい。
大学の先生と祖母。実は、ふたりとも享年90歳という共通点があって、少し驚いた。大正生まれなのね。
一説には、大正から昭和初期にかけて生まれた人たちは身体が実に頑丈だという。その時代に生まれた人たちは、子どもの頃にたっぷり遊びまわる時間があったこと、食料事情が良かったという点で恵まれていたからだという。
90歳までしっかり生きられたら、立派な大往生だよねえ。
それにしてもこの一年というもの、礼服をクリーニングに出す間もないくらい葬儀や法事だらけ。でも、人間の生活なんて、本来は死と切り離せないものなんだし、ある意味普通なのか。
葬儀は教会で執り行われたので、キリスト教に帰依されていたのだと知った。そう言えば私のゼミの先生もカトリックの信者だったが、亡くなる時までゼミ生の誰もまったく知らずにいた。何を信仰しているのか、という問題はごく個人的なことがらであって、いちいちカミングアウトすることではないのかもしれない。
もう一件の訃報は、私の祖母。母の母にあたる。長らく養護施設に入っていて、私はほとんど会いに行かなかったけれど、時々見舞いに行っていた母によれば、祖母は身体のあちこちが弱くなっていたものの、別段ボケがくるわけでもなく、比較的穏やかに時を過ごしてたという。亡くなった原因もほぼ老衰と言っていいぐらい。
大学の先生と祖母。実は、ふたりとも享年90歳という共通点があって、少し驚いた。大正生まれなのね。
一説には、大正から昭和初期にかけて生まれた人たちは身体が実に頑丈だという。その時代に生まれた人たちは、子どもの頃にたっぷり遊びまわる時間があったこと、食料事情が良かったという点で恵まれていたからだという。
90歳までしっかり生きられたら、立派な大往生だよねえ。
それにしてもこの一年というもの、礼服をクリーニングに出す間もないくらい葬儀や法事だらけ。でも、人間の生活なんて、本来は死と切り離せないものなんだし、ある意味普通なのか。
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最近、何もかもが忙しい。年のはじめに忙しさをどうにかしなくてはと思ったら却ってひどいことになったというか(汗)
2/19にあったピアノの発表会が終われば少しは余裕ができて、あんなことやこーんなことができると妄想していたのだが。
2/19にあったピアノの発表会が終われば少しは余裕ができて、あんなことやこーんなことができると妄想していたのだが。
フォローしている人のなかに、元朝日の記者で、今はフリーライターをしている人がいる。その人は福島へ何度も出かけて行っては避難している人たちの様子を取材し、ネット上で記事にしている。ひとつ記事があがるたびに多くの反響があって、そのフリーライターはツイッターで投げかけられた意見を賛否関係なく次々にRTする。反論してきた人には、さまざまな形で反論を返す(まともに相手するときもあれば、けなしたりすかしたりすることも/笑)。すると、当事者でないフォロワーにもどんな意見が上がってきて、どんな意見の応報があるのかよく見える。
面白いのは、世間一般的に「そうだ、そのとおりだ」と頷きたくなる意見に対して「それはピンボケだ」と返していることが多いことだ。するとライター側とそれに反対する側と両方に用語意見がくっついてちょっとした騒ぎになる。
最初は、炎上をひけらかしてるのかと思ったけど、注意深く読み、時間をかけて追ってゆくとそうではなかった。「ピンボケ」と言われるからにはそれなりの理由がちゃんとあるが、なぜピントがずれているのかはなかなか明言されず、自分の頭でよく考えてみてああそうかと附に落ちることが多い。それがゲームをしているみたいに面白い。そして世の中、いかに多様な意見が通っているか、そしていかに勘違いや思い込みが多いか、も実感する。
さらにフリーライター氏は、取材記事だけでなく、時にわざと人の神経を逆なでするようなコメントをつぶやいては物議を醸し出しているのだが、結局この人は自分の発言をたたき台にして議論が広がってゆくのを見たいんだろうなと思う。そういう場合、一番嫌われるのは高みの見物を決め込む傍観者だとか、直接自分には関係ないからと目を背ける無関心な層なのだが、チキンな自分は未だに議論の輪に入ってゆく勇気がない。
いつか、入って行けたらいいなぁ……などと心にもない事は言わぬが花。
だってツイッターで自分の発言に責任を持つなんて恐ろしいことできないし。(まぁ、ブログでも若干逃げ腰で書いていることは認めるが)
自分の書いたものに責任を持つ場なら、他にあるから。
面白いのは、世間一般的に「そうだ、そのとおりだ」と頷きたくなる意見に対して「それはピンボケだ」と返していることが多いことだ。するとライター側とそれに反対する側と両方に用語意見がくっついてちょっとした騒ぎになる。
最初は、炎上をひけらかしてるのかと思ったけど、注意深く読み、時間をかけて追ってゆくとそうではなかった。「ピンボケ」と言われるからにはそれなりの理由がちゃんとあるが、なぜピントがずれているのかはなかなか明言されず、自分の頭でよく考えてみてああそうかと附に落ちることが多い。それがゲームをしているみたいに面白い。そして世の中、いかに多様な意見が通っているか、そしていかに勘違いや思い込みが多いか、も実感する。
さらにフリーライター氏は、取材記事だけでなく、時にわざと人の神経を逆なでするようなコメントをつぶやいては物議を醸し出しているのだが、結局この人は自分の発言をたたき台にして議論が広がってゆくのを見たいんだろうなと思う。そういう場合、一番嫌われるのは高みの見物を決め込む傍観者だとか、直接自分には関係ないからと目を背ける無関心な層なのだが、チキンな自分は未だに議論の輪に入ってゆく勇気がない。
いつか、入って行けたらいいなぁ……などと心にもない事は言わぬが花。
だってツイッターで自分の発言に責任を持つなんて恐ろしいことできないし。(まぁ、ブログでも若干逃げ腰で書いていることは認めるが)
自分の書いたものに責任を持つ場なら、他にあるから。
ツイッターを日々読んでいると、日本がどれだけ大変な状態なのか、ひしひしと伝わってくる。「日本はもうだめだ」とか「未曾有の危機」とか「今こそ変わらなくてはいけない」とか。そんなつぶやきの中に、私なんかは「今日は〇〇した」なんて日常の出来事をつぶやいて残してゆくわけ。
その時に感じるのは微かな罪悪感と逆に日常も大切だから、という開き直りの両方で、なんとも中途半端。
けれども、あえて意見を表明しないということは意識的にやってる。つぶやくのはあくまで自分に起こった出来事だけだ。意見を書くとするなら、それは他者のつぶやきに対する反応であって、自らが何かを主張することはない。
というのも、理由は2つあって、ひとつは共感にせよ、反発にせよ、飛んでくる反応に対していちいち丁寧に対応する余裕がないということ。もうひとつは、裏付けが足りない意見を言ってもそれはタイムラインをかき乱すことにしかならならい、と思っていること。何かを発信するなら、それなりの根拠を持って、ということだね。
要は面倒なんだね。人とツイッター上で議論したりとことん意見を交わしたりするのが。せっかく可能性を持っているツールを使っているのにもったいないかもしれない、とは思う。
逆に読み手の立場としては、人様の(特にリアルで知っている人の)日常のつぶやきはいつも楽しく読んでいて、まったく知らない人のつぶやきからは何らかの意見とか知識の披露とか、とにかく読んでトクになることを期待している。まぁ、誰でもそんなものかな。
ツイッターのいいところはタイムラインを好きにカスタマイズできる、つまり欲しい情報を自分で選べることにあるのだからその時の考えにあわせて受信・発信の方法を変えてゆけばいいのか。
その時に感じるのは微かな罪悪感と逆に日常も大切だから、という開き直りの両方で、なんとも中途半端。
けれども、あえて意見を表明しないということは意識的にやってる。つぶやくのはあくまで自分に起こった出来事だけだ。意見を書くとするなら、それは他者のつぶやきに対する反応であって、自らが何かを主張することはない。
というのも、理由は2つあって、ひとつは共感にせよ、反発にせよ、飛んでくる反応に対していちいち丁寧に対応する余裕がないということ。もうひとつは、裏付けが足りない意見を言ってもそれはタイムラインをかき乱すことにしかならならい、と思っていること。何かを発信するなら、それなりの根拠を持って、ということだね。
要は面倒なんだね。人とツイッター上で議論したりとことん意見を交わしたりするのが。せっかく可能性を持っているツールを使っているのにもったいないかもしれない、とは思う。
逆に読み手の立場としては、人様の(特にリアルで知っている人の)日常のつぶやきはいつも楽しく読んでいて、まったく知らない人のつぶやきからは何らかの意見とか知識の披露とか、とにかく読んでトクになることを期待している。まぁ、誰でもそんなものかな。
ツイッターのいいところはタイムラインを好きにカスタマイズできる、つまり欲しい情報を自分で選べることにあるのだからその時の考えにあわせて受信・発信の方法を変えてゆけばいいのか。
やっと思うようになってきた。
誰かと会うとき、楽しい時間を期待するのは当然のことだけど、楽しませてもらうことを期待するんじゃなくて、どれだけ相手に楽しんでもらえるかを気にしたほうがいいなあと。そういう気遣いのできるひとが大人なんだと。
とてもシンプルなことなのにどうして今頃気づく?
誰かと会うとき、楽しい時間を期待するのは当然のことだけど、楽しませてもらうことを期待するんじゃなくて、どれだけ相手に楽しんでもらえるかを気にしたほうがいいなあと。そういう気遣いのできるひとが大人なんだと。
とてもシンプルなことなのにどうして今頃気づく?
今年は、ここ10年の中で一番変化が多くて大きかった年。多いだけではなく、いちいち大きい、というところがミソ。まずは並べてみよう。
① 就職した。某文化センターの夜勤のお仕事。一日5時間×一ヶ月20日。
② 娘が高校生、息子が中学生に。ある意味手がかからなくなった。というか関わり方の質が変わった。
③ ダンナの実家が火事で燃え、舅が亡くなった。
④ 舅のトンデモな遺産(?)であるイヌの面倒を見ることに。そのお世話に振り回される。
⑤ 長年の憧れだったピアノを習い始めた。来年2月には発表会に出る予定。弾き語りをしている自分が信じられない。
⑥ ↑のような事情により、いったんオーケストラ活動を休止するも、秋になって再開。おかげで創作するどころか、本を読む時間もない日々。でもあんまり後悔してない。○○につける薬はないのだ。
いやもう、一年前の今頃はとても想像できなかったような状況になってしまった。
① 就職した。某文化センターの夜勤のお仕事。一日5時間×一ヶ月20日。
② 娘が高校生、息子が中学生に。ある意味手がかからなくなった。というか関わり方の質が変わった。
③ ダンナの実家が火事で燃え、舅が亡くなった。
④ 舅のトンデモな遺産(?)であるイヌの面倒を見ることに。そのお世話に振り回される。
⑤ 長年の憧れだったピアノを習い始めた。来年2月には発表会に出る予定。弾き語りをしている自分が信じられない。
⑥ ↑のような事情により、いったんオーケストラ活動を休止するも、秋になって再開。おかげで創作するどころか、本を読む時間もない日々。でもあんまり後悔してない。○○につける薬はないのだ。
いやもう、一年前の今頃はとても想像できなかったような状況になってしまった。
最近、忍者さんのブログでも三ヶ月以上放置しておくと、最新記事の上に広告が出る仕様になった。ここもずいぶん長いこと放置していたからとっくに広告は出ているだろうと思っていたが、ギリギリのところで間に合ったようだ。
で、今日は何の話かというと、牛乳パック。
先日、仕事でとある会議室の戸締りをした。そこは環境関連イベントの下準備がしてある部屋で、中には牛乳パックで作られたおもちゃやゲーム、明らかに不要品の中から発掘したと思われる景品が用意されていた。
別に珍しい光景ではない。エコ関連イベントには必ずといっていいほど登場する光景だ。
でも、その時は、それらが無様で無意味な物体の集合に見えた。どんなにいじったところで、ゴミはゴミ、結局のところは不用品なのだから。
イベントが終われば牛乳パックは処分されるし、景品として各家庭に引き取られた不要品は、ほどなくゴミ箱行きになるだろう。本当に欲しくて手に入れたものでない限り。結局ゴミは減らない。
本当にゴミを減らしたいなら、すぐにゴミになるような物を手元に置かないのが一番だし、そういう生活スタイルを提案することが本当の意味でエコにつながるんでゃないのかな。そして、ゴミを少ししか出さなくていいようなライフスタイルは、シンプルで美しいだろうと思う。
で、今日は何の話かというと、牛乳パック。
先日、仕事でとある会議室の戸締りをした。そこは環境関連イベントの下準備がしてある部屋で、中には牛乳パックで作られたおもちゃやゲーム、明らかに不要品の中から発掘したと思われる景品が用意されていた。
別に珍しい光景ではない。エコ関連イベントには必ずといっていいほど登場する光景だ。
でも、その時は、それらが無様で無意味な物体の集合に見えた。どんなにいじったところで、ゴミはゴミ、結局のところは不用品なのだから。
イベントが終われば牛乳パックは処分されるし、景品として各家庭に引き取られた不要品は、ほどなくゴミ箱行きになるだろう。本当に欲しくて手に入れたものでない限り。結局ゴミは減らない。
本当にゴミを減らしたいなら、すぐにゴミになるような物を手元に置かないのが一番だし、そういう生活スタイルを提案することが本当の意味でエコにつながるんでゃないのかな。そして、ゴミを少ししか出さなくていいようなライフスタイルは、シンプルで美しいだろうと思う。
「山のあなたの空遠く 〈幸い〉住むと人のいう」
とはよく言ったもので、〈幸い〉というのは手の届かない場所にあるからこそ価値があると思っていたし、手に届くところにあるものはどんなによさげに見えても〈幸い〉ではないと思っていた。
でもそれは一種の欺瞞だ。現状に満足しないための。今、目の前にあるものが〈幸い〉だとしたら、〈幸い〉を追い求める旅が終わってしまう。
でもそれは結局中二病の領域だ。いいオトナは〈幸い〉を手に入れてなお、その先の段階を考えてゆくものだ。
とはよく言ったもので、〈幸い〉というのは手の届かない場所にあるからこそ価値があると思っていたし、手に届くところにあるものはどんなによさげに見えても〈幸い〉ではないと思っていた。
でもそれは一種の欺瞞だ。現状に満足しないための。今、目の前にあるものが〈幸い〉だとしたら、〈幸い〉を追い求める旅が終わってしまう。
でもそれは結局中二病の領域だ。いいオトナは〈幸い〉を手に入れてなお、その先の段階を考えてゆくものだ。
三ヶ月以上ほったらかしてついに広告が出てしまったブログを見ると、どうも切なくていけない。やっぱりここに戻ってこようかなぁと思う。
はてなさん、悪くないんだけど、というか最初からはてな村に居着いてれば便利にいろんな機能を楽しんでいたと思うのだけど、裏用として使うには高機能すぎてもったいない。引っ越すなら表ブログにすればよかった。
片隅ブログにはそれにふさわしい場所があるわけで、それがたぶんここなのだ。
気に入るテンプレも多いし。
よし、ぼちぼち引越し、じゃなかった、出戻り作業を始めよう。
でもその前に記事をひとつ書いておこう。テンプレも前のに戻そう。
はてなさん、悪くないんだけど、というか最初からはてな村に居着いてれば便利にいろんな機能を楽しんでいたと思うのだけど、裏用として使うには高機能すぎてもったいない。引っ越すなら表ブログにすればよかった。
片隅ブログにはそれにふさわしい場所があるわけで、それがたぶんここなのだ。
気に入るテンプレも多いし。
よし、ぼちぼち引越し、じゃなかった、出戻り作業を始めよう。
でもその前に記事をひとつ書いておこう。テンプレも前のに戻そう。